小沢幹事長不起訴で民主党全体が灰色政党になった、(民主党政権の内実、その4)

 2月3日付の朝日新聞を見て、新年以来の憂鬱な気分が一挙に「暗澹たる気持ち」に変わった。一面トップ記事が「小沢氏不起訴の方向」、その下が「橋下知事「支持」79%」の4段記事、その横が「プリウス苦情多発」の3段記事で埋められていたからだ。

 この見出しを見て、日本の戦後統治体制の基盤となってきた「政財官三位一体構造」がいよいよ崩壊過程に入ったと感じたのは、私一人ではあるまい。小沢幹事長(政界)の「巨悪」がこれほどまで暴露されているというのに、東京地検特捜部(官界)が起訴を見送り、その一方では、財界トップを君臨してきたトヨタが目玉商品のプリウスの「欠陥車問題」で告発される。そしてこんな政財官閉塞状態から脱出できない世論が、橋下知事の「トリック」を依然として見破れない。

 このことは、日本社会の縮図のような事件や現象がたった1日の紙面に凝縮されるほど、いまや日本の統治体制の矛盾が激化していることを示すものだ。なかでも小沢民主党幹事長の不起訴問題は、今後の政治情勢をますます流動化させ、「第二、第三の橋下」を生み出すような混沌たる社会状況を引き起こすにちがいない。

 小沢不起訴が決まってからの民主党は、小沢批判が一斉に鳴りをひそめるかたわら、一方では小沢氏の取り巻き連中による「身の潔白」の大合唱が起きている。その先頭に日教組出身の輿石幹事長代理や自治労出身の高嶋筆頭副幹事長が立っているのだから、かっては国政革新・自治体革新の中核を担った官公労もいまや「真っ青」というところだろう。これでは国民世論が行き場を失い、労働運動が低迷するのも無理はない。

 だが見方を変えてみると、民主党は体質改善の「千載一遇のチャンス」を逃したとも言える。小沢幹事長に象徴される「自民党的なるもの」、すなわち土建公共事業を食い物にした「利権政治構造」を打破するための絶好の機会を逃したということだ。それどころか、来年度予算の公共事業の「箇所付け」が、国会審議に先立って民主党県連を通して地元自治体に流されるなど、自民党張りの利益誘導政治手法も真似ているのだから呆れる。これでは「政権交代」効果がますます薄れるというものだ。

 検察側に対する評価に関しても、「小沢幹事長に屈した」という見方は単純すぎる。贔屓目に見れば、むしろ「司法任せ」、「検察任せ」といった安易な国民世論に対して「ボールを投げ返した」という見方もできるからだ。国民が本来主権者として政治や政治家に対して厳しい評価を下さなければならないにもかかわらず、橋下知事のような「トリックスター」のパフォーマンスに幻惑され、利権政治の摘発に関しても「正義の味方・検察」だけに期待するだけで、自らが動こうとしないのはお門違いだろう。というよりは、幼稚すぎる。

 マスメディアの「2大政党論」に煽られ、多くの国民は自公政権に代わる民主党政権に期待した。だが民主党政権の構造や体質はそれほど透明性の高いものではない。「民主党の皮をかぶった自民党出身者」もいれば、「大企業の代理人である労組出身者」もいる。そして、それらが権力の中枢部を握っているのが現在の民主党政権だといってもよい。その「氷山の一角」が小沢幹事長問題にあらわれているだけのことなのだ。

 今後、小沢幹事長参考人招致問題や石川議員辞任問題が国会での焦点となるだろう。だが山岡国対委員長はこれらの案件を「吊るしておく」と公言している。要するに国会で審議せず、放置して無視するということだ。民主党が衆参両院で多数を占めているのだから、国会戦術としては可能だ。だが国民世論がそれを容認できるのか。

 小沢事件も鳩山事件も「司法任せ」にしてはならないだろう。国民すべてが裁判員となり、彼らに対する政治審判に参加すべきだ。政党支持率内閣支持率の日々の動向に注意を奪われるのではなく、自らの判断で行動し、審判を下すべきだ。そしてそのときにこそ、民主党は「灰色政党」の体質をそのまま放置できなくなる。

 話は違うが、小沢問題と並行して国民的話題をさらった朝青龍問題は、結局のところ彼の「引退」で幕を閉じた。暴行事件を引き起こしたとされる朝青龍は、警察に逮捕されたわけでもないし、裁判にかけられて有罪になったわけでもない。彼が引退せざるを得なかったのは究極のところ「世論の力」であり、それに従わなければ、相撲協会そのものの存在意義が問われかねなかったからだ。

 小沢幹事長は不起訴となり、司法の場での裁きを免れた。でも朝青龍と同じく、たとえ警察や検察の手にかからなくても国民の世論や審判を免れるわけにはいかない。そして国民の批判が無視できなくなったとき、民主党政権の代表制や正統性が問われる時がやってくるのである。