小沢氏の「起訴相当」議決は、民の声、天の声、(検察審査会制度の波紋(1)、民主党連立政権の行方、その9)

小沢民主党幹事長の身辺がこのところ日ごとに慌ただしさを増している。5月13日の各紙報道によると、小沢氏は自らの資金管理団体陸山会」の土地取引事件をめぐって、東京地検特捜部の再度の任意事情聴取に応じる方向で検討中らしい。また国会で説明責任を果たすよう求められている「政治とカネ」の問題については、衆議院政治倫理審査会に出席して説明する方針を固めたという。

これまで小沢氏は、東京地検が「嫌疑不十分」で不起訴処分したことを最大限利用して「身の潔白」を主張してきたが、ここに来て「このままでは済まされない」ことをようやく悟ったようだ。いうまでもなくその最大の要因は、さる4月27日の東京第5検察審査会による全員一致の「起訴相当」議決の衝撃である。

司法改革の一環として裁判員制度の導入と検察審査会制度の権限強化が昨年5月に決まったとき、マスメディアの関心はもっぱら裁判員制度の方に向けられていた。国民の眼もまた同様だったといってよい。最高裁からの啓蒙宣伝資料も裁判員制度に関するものが大部分で、検察審査会関連のものは目に触れることが少なかった。

だがここにきて、裁判員制度導入の意義はいうまでもないにしても、それにも増して検察審査会の権限強化の意義が大きいことがわかってきた。昨年5月までは検察審査会がどのように議決しても拘束力がなく、検察にとっては単なる「参考意見」にすぎなかった。それが法改正により検察審査会が2度にわたって「起訴相当」と議決すれば、検察の意思とはかかわりなく強制的に起訴される道が開かれたのである。

しかもこの法改正によってはじめて「強制起訴」の対象となった事件が2件とも私にとって身近な事件であったことが、検察審査会制度の権限強化の意義をひときわ印象付ける契機となった。ひとつは、2001年7月の明石市大蔵海岸とJR朝霧駅を結ぶ歩道橋上で、花火大会の見物客が折り重なって倒れ、幼い子どもを含む11人が死亡、200人近い人が重軽傷を負った事件である。

神戸地検は、現場の警備担当の明石署警察官と明石市幹部ら5人を業務上過失致死傷罪で起訴したが、指揮責任のある署長と副署長については「嫌疑不十分」で不起訴処分にした。私は事故現場のごく近くに住む友人と一緒に何度も現場に行ったが、市民の安全を守る責任者の2人が不起訴になったことにどうしても納得がいかなかった。それを神戸検察審査会が2度にわたって「起訴相当」の議決を出し、検察官役を務める指定弁護士がさる4月20日、業務上過失致死傷罪で元副署長を在宅のまま強制起訴したのである(元署長は病気で死亡)。

もうひとつの事件は、先日の日記でも書いたJR西日本福知山線脱線事故にかかわる事件である。神戸検察審査会の歴代3社長に対する2度にわたる「起訴相当」の議決を受けて、指定弁護士は時効寸前の4月23日に歴代3社長を強制起訴した。これで、これまで一度も遺族の前に姿を現さなかった井手元社長・会長をはじめ、JR西日本の最高責任者4人が法廷の場で裁かれることになったのである。

今回の小沢氏に対する「起訴相当」議決は1回目なので、強制起訴されるにはもう1回「起訴相当」議決が行われる必要がある。次回は11人の審査会メンバーのうち6人が交代するので、結果がどう出るかわからない。しかし今回の議決が「全員一致」であったことの事実は重い。仮に新メンバーのなかに「起訴不相当」と考える人がいても、もし今回の議決に加わったメンバーの判断が変わらない場合には、「起訴相当」議決が出て、小沢氏が強制起訴される可能性は大きい。

これら3件の検察審査会議決の対象となった事件は、いずれも対象者が厳しい公的・社会的責任を問われる立場にあった人びとだということである。警察署幹部、鉄道最高経営者、政党最高幹部など強大な権限を有する権力者は、その地位にふさわしい公的・社会的責任を負っている。それが社会的・道義的倫理と言われるものだ。

だがこれら対象者に共通するのは、最低限の刑事責任さえ免れれば後は顧みないという、目をそむけたくなるような「モラル・ハザード」(倫理崩壊)の体質だろう。経営者、権力者に求められる社会的倫理感が完全に欠落しているこのような人物たちを対象にするとき、その判断を狭い刑事責任の範疇で処理しようとする検察に委ねるのは適当ではない。まさに裁かれるべきは、刑事責任はもとより社会的・道義的責任なのである。国民が参加し市民的目線で判断する検察審査会の機能は、いまようやくスタートしたばかりなのである(つづく)。