鳩山首相の「腹案」の中身は「無策」だった、(民主党連立政権の行方、その8)

 鳩山首相が沖縄に行ってやっと「腹案」を披露した。それは普天間基地辺野古地区の海上に移設し、ヘリコプター部隊を一部徳之島に移すというもので、かねてから平野官房長官に水面下で工作を続けさせていた案をただ表に出しただけのことだ。

 「腹案」という言葉には、なにかしら「心の中に秘めている上策」とのニュアンスがある。「私には腹案がある」と言ったら、通常はその人が難題を一挙に解決できそうな「秘策」を持っていると受け取られる。まして、一国の首相の言葉である。首相がそう言ったら、普通の国民では到底思いもつかないような「名案」を持っているに違いないと期待されるだろう。

 だが、鳩山首相の「玉手箱」には何も入っていなかった。まさに「開けてびっくり玉手箱!」で、中身は自公政権辺野古移設というカビの生えた古饅頭に「徳之島案=県外」というキナ粉を少々まぶしただけのことだった。鳩山首相の腹案を聞いた沖縄の人びとは、どれほど落胆したことだろう。那覇市長などは、その瞬間、全身が崩れ落ちるような脱力感に襲われたと語っている。

 私自身とて鳩山首相が「辺野古の海を埋め立てるのは自然への冒涜だ」と言ったとき、ひょっとしたら別の案を考えているのかもしれないと一瞬思ったぐらいだ。なにしろ辺野古地区の住民たちは、自公政権が基地移転を決定したにもかかわらず、その後は「杭一本」も打たせないで自然の尊厳を守り抜いてきたのである。ところが首相の腹案は、「杭8千本」も打ち込むほどの巨大な桟橋の建設案だった。埋め立てが「自然への冒涜」であって、8千本の杭を打ち込むことが「冒涜でない」というような詭弁がいったいまかり通るとでも考えていたのだろうか。

 それに腹案の解説がまた振るっている。「当初は普天間基地の県外移設でも抑止力は維持できると思っていたが、勉強すればするほど米軍基地は沖縄県内でなければならないと認識するようになった」というのである。もしそういうことが許されるのであれば、民主党は「沖縄ビジョン」も含めて、今後、何もかも「勉強不足」を口実にして政策や公約を平気で変える政党だということになる。現に消費税の増税論議はその方向で進んでいる。

 加えて、「普天間基地最低でも県外移設というのは党の公約ではなく、党の代表である鳩山個人の意見だ」という詭弁には心底驚いた。ここまで来ると、この人物はもはや「場当たり人間」や「思いつき人間」の域をはるかに通り越して、「立派な詐欺師」だという他はない。マニフェストがひとりで表通りを歩いているのではないのである。政党や政治家が国民に政策や公約を語りかけることによって、国民はマニフェストの中身を理解するのである。国民は生身の政治家の演説を聞き、表情や態度も含めて総合的に政策や公約を判断する。だから選挙中に政党の党首が公然と繰り返した演説を「党の公約ではなく個人の意見だ」と言われたら、選挙制度そのものが崩壊してしまう。

政党にとって政策や公約は極めて重いものだ。いや命である。政策はあらゆる点から議論を重ね、矛盾のない整合性のある方針でなければ政策とはいえない。そしていったん国民に公約したら、滅多なことがない限り変更されてはならない存在だ。なぜなら政党は政策を基礎にして組織され、その実現に向かって誠実に行動することによってはじめて社会的存在として認められるからだ。政策や公約をないがしろにする政党は、「詐欺師の集団」と何ら変わらない。事実、鳩山首相は沖縄の人々から「嘘つき」や「泥棒」だといわれていたではないか。

だが逆説的ではあるが、私は普天間基地問題をめぐる鳩山首相の功績は多大なものがあると思う。それは、戦後政治を震撼させた60年安保闘争からちょうど半世紀を経た2010年の現在、この問題を通していまふたたび「静かな安保闘争」が始まっていること実感するからだ。そして言うまでもなく、その火付け役は鳩山首相その人である。鳩山首相は、日米安全保障条約に基づく米軍基地の存在が、沖縄はもとより全国のどこにも受け入れられない存在であることを白日のもとに示したからである。 

いまテレビ番組をみると、「米軍基地は本当に日本に必要なのか」という議論が堂々とはじまっている。また街頭インタビューでも、ごく普通のサラリーマンやオフィスレディが安保条約の必要性について自分の意見を語っている。首相は「勉強不足」でも務まるかもしれないが、国民は今回の普天間基地移設問題をめぐって随分勉強する機会を与えられた。そして首相が詭弁を弄して頑張れば頑張るほど、国民の政治関心と政治意識のレベルは着実に上がっていくだろう。

60年安保闘争の半世紀後に登場した鳩山首相は、普天間基地問題への対応を通して安保条約廃棄の切っ掛けをつくったと後世の歴史家から評価される存在になるだろう。国民の政治行動は必ずしも60年安保闘争のように街頭では展開されないかもしれないが、もはや「静かなる安保闘争」の勢いや広がりは止めようがないのである。(つづく)