閑話休題、京都五山送り火騒動に思う(2)、(私たちは東日本大震災にいかに向き合うか、その30)

マスメディアがこれだけ発達している日本だから、私たちは居ながらにして新聞やテレビなどで被災地の状況を知ることができる(と思いがちだ)。だが、通常の自然災害とは異なり、原発災害は様相も状況もまったく違う。それは、原発災害が「目に見えない災害」であることから、その実態を把握するには「肌で感じる」だけではなく、「理性の力」「科学の力」を借りる必要があるからだ。

今回話題となった被災地の松は、陸前高田市の大津波でなぎ倒された景勝地高田松原」の松だ。陸前高田市岩手県の南部に位置し、福島第一原発とは宮城県を挟んで約200キロも離れている。事故現場から10キロや20キロの「警戒区域」や「計画的避難区域」ならまだしも、200キロも離れている陸前高田の松が放射能で汚染されているとは誰もが予想しなかった(できなかった)。原発事故直後から、東電、政府、原子力ムラの学者たちが挙って「原発は大丈夫」「直ちに健康に支障はない」などと“大本営発表”を繰り返し、被災者や国民はそれを信じる他がない状況に置かれてきたからだ。

だが、私たち阪神淡路まちづくり支援機構の一行が被災地調査で壊滅した高田松原の現場に行ったとき(2011年4月末)、同行していた核物理学者のガイガーカウンターからは、すでにそれなりの放射能が検出されていた。また福島市内に自動車で入ったときは、避難区域でないにも関わらず、道路わきの「ホットスポット」(局地的な高線量地域)近くを通過したためか、車内でもガイガーカウンターがけたたましく鳴って緊張を強いられる場面もあった。政府や自治体のモニタリング体制が追いつかないために、すでにその段階で放射能が広範囲に拡散している実態を私たちが知らなかっただけの話なのだ。

原発事故から日が経つにつれて、微量であれ低線量であれ、放射能が広範囲に拡散している状況が次第に明らかになってきている。この深刻な事態を直載に指摘したのが、7月下旬、衆議院厚生労働委員会参考人として出席した児玉龍彦教授(東大アイソトープ総合センター長)の証言だった(東大にもこんな立派な学者がいる!)。

児玉教授は、食品の放射能汚染で消費者の不安が全国的に広がっているにもかかわらず、政府が食品の放射線量測定に全力を注がず、子どもたちを守るための法整備も怠っていることを厳しく批判した。そして「放射性物質を減らす努力に全力を挙げることを抜きに、どこが安全だという議論をしても国民は絶対信用しない」、「7万人が自宅を離れてさまよっている時に、国会は一体何をやっているのですか!」と並居る国会議員を激しく叱責したという。(毎日、2011年8月8日)

児玉教授の推計によれば、福島原発事故で放出された放射性物質の量は、ウラン換算で広島原爆20個分に相当する膨大な線量に達したとされる。その後の放射線量の減り方が異常に遅いことを考えれば、すでに放射能が広範囲にわたって拡散しており、今後予測がつかない場所で濃縮が起こる場合もあり得ると警告したのである。そして結論として、局所的な緊急避難的除染と地域全体を対象にした恒久的除染を区別して実施し、恒久的除染作業は国家事業として全力で対処しなければならない大事業だと力説した。

今回の陸前高田の松の受け入れも、本来ならば、被災地と京都が心を合わせて東日本大震災犠牲者の鎮魂と追悼の場を共有する得難い機会になるはずだった。そこに流れるのは関係者の「善意」であり、被災者の気持ちに寄り添おうとする「共感」だった。そしてその善意を生かすためには、放射能不安に揺れる市民や関係者を支える「理性の力」が必要だった。京都市はその役割を果たすべきだったのだ。

だが京都市の一連の対応を見ていると、そこには京都観光を振興するための「イベント重視」の姿しか浮かび上がってこない。東日本大震災は、被災地はもとより全国の観光地に甚大な打撃を与えた。政府の原発事故情報公開の遅れ(隠蔽)によって、日本列島全体が放射能で覆われているとの風評被害が世界中に広がったためだ。とりわけ国際観光都市京都のダメージは大きく、激減した観光客を取り戻すことが京都市行政の至上命題となった。

こんな矢先、発生したのが送り火騒動だった。もしこれが切っ掛けとなって京都が放射能で汚染されているとの噂でも広がれば、「京都観光にとっては致命傷になる」と市役所は考えたのではないか。だからこそ「放射能未検出」が送り火の前提条件となり、中止するかしないかの判断基準となったのである。京都市にとっては「放射能不安」の除去が第一命題であり、被災地・被災者の追悼は第二命題でしかなかったのである。

だが「一度は引き受けた事柄の重大さ」と「中止による反響の大きさ」の代償は大きかった。傷跡は拡がり、市長が被災地に赴いて謝罪するといわなければならないところまで追い込まれた。しかし「被災地を二度悲しませた」京都の代表が、陸前高田に迎えられることはなかった。

被災地の松を受け入れて送り火として燃やそうとした「善意」は「失意」に変わった。でも保存会の人々の懸命の努力と多くの京都市民のサポートによって、「失意」は辛うじて救われた。京都と被災地の人々は、これから五山送り火の季節が来るたびに、その苦い経験と教訓を思い返すことだろう。