閑話休題、中国東北部ハルビン市731部隊遺跡訪問記(1)

 9月18日は、80年前(1931年)に満州事変の発端となった柳条湖事件が発生した日だ。関東軍中国東北部奉天(現・瀋陽)近郊の柳条湖で満鉄線路を爆破し、これを中国側の仕業だとして侵略を開始した。その日から、満州事変は日中戦争、アジア太平洋戦争へと拡大し、中国侵略戦争は日本が敗戦を迎えるまで日まで15年間にわたって続いた。世に言う「十五年戦争」である。

 満州事変80周年を直前にした9月13日から17日の5日間、私は「15年戦争と日本の医学医療研究会」(以下、「戦医研」という)第9次訪中調査団のオブザーバーとしてハルビンを訪問した。戦医研は、「15年戦争をめぐる日本の医学医療界の責任の解明」を目的に、医師・医学者や歴史家を中心に2000年6月に結成された学術団体で、その主たる活動は「15年戦争と日本の医学医療に関する史実・証言の収集調査と研究」であり、研究会会誌も発行されている。

 今回の訪中団は7名、医師3人、医学者1人、医学部学生と外国語学部学生各1人、そして私である。なぜ医学にも歴史学にも門外漢の私が参加した(誘われた)かというと、(1)ハルビン生まれであり、それなりに土地勘があること、(2)731部隊に強い関心を持っていること、(3)戦医研会員に知己がいること、(4)731部隊跡地の世界遺産登録の準備が中国側で進められており、それに対する都市計画的視点から意見を求められたこと、などによるものだ。

 現在の黒竜江省省都ハルビンは、19世紀末から第1次世界大戦前にかけて、ロシア帝国満州進出と極東経営の拠点として建設した国際都市である。その愛称は「東方のモスクワ」「東洋のウイーン」などといわれたように、ロシア建築に覆われた国際色豊かな美しい都市だった。1932年の「満州国」建国以前から日本人も多数移り住み、日本人幼稚園・小学校・中学校・高等女学校・商業学校なども数多く設立された。満鉄(南満州鉄道株式会社)技師としてハルビンに赴任した私の父もかくなる日本人の一員であり、私はその末裔というわけだ。

 京都には「ハルビン会」という組織がある。その中心はハルビン最初の日本人小学校・桃山小学校の同窓会だ。桃山小学校の前身は、1909(明治42年)年創立の西本願寺付属小学校(児童数4人)で、その後は1920(大正9)年に満鉄設立哈爾濱尋常高等小学校となり、1936(昭和11)年に哈爾濱桃山尋常高等小学校に改称されて以来、桃山小学校と呼ばれるようになった。同小学校は、現在ハルビン市立兆麟小学校として建物のほとんどがそのまま継承されており、ハルビン切っての名門校だそうだ。

 兆麟小学校へは調査日程の一部を割いて3日目に訪問した。突然の訪問にもかかわらず私たちは先生方に温かく迎えられ、校舎はもとより授業中の子どもたちの様子をありのまま見せていただくことができた。歴史的建造物とも言える校舎は丁寧に維持管理され、建設時の美しい様相を保っていた。子どもたちは圧倒的に中国籍だというが、少数ながら白系ロシア人の子どもたちの姿も見られた。

 なぜ731部隊遺跡のことに触れる前に長々と桃山小学校のことを書いてきたかというと、私は小学校入学以前に内地に帰国したにもかかわらず、「ハルビン生まれ」というだけで京都の「ハルビン会」に入れていただき、桃山小学校同窓会の方々から当時のことをいろいろと教わってきたからだ。しかし731部隊のことはタブーになっていたのか、それともその中に関係者が誰もいなかったのか、とにかく731部隊の名は一度も聞いたことがなかった。

 桃山小学校同窓会は、1999年6月に京都で「ハルビン桃山小学校同窓会創立90周年記念大会」を開き、参加者名簿によれば全国各地から教職員29人、卒業生437人、計466人の多数が参加している。そのとき『回想の哈爾濱、哈爾濱桃山小学校創立九十年記念誌』が発行され、その中には桃山小学校の歴史や同窓生の数々の手記、それに兆麟小学校の張校長からのお祝いの言葉なども掲載されている。私も一部いただいた。

 記念誌には教職員と同窓生名簿が添付され、10期生(1923年、大正12年卒業)から39期生(1945年、昭和20年入学)に至るまでの同窓生氏名(旧姓も含めて)と現住所が収録されている。各期生ごとの消息不明者・物故者の氏名も掲載されているから、在籍者のほぼ全てを掌握したうえで名簿が作成されたと思われる。通常の場合、国内の小学校でもこれだけ詳細な名簿を過去に遡って作成することは容易でないが、それが敗戦時の混乱を超えて同窓会が継承され、時代を超えて詳細な同窓会名簿が作成されるのだから、その熱意とネットワークの緊密さには並々ならぬものがある。

 ちなみに1999年現在の教職員・同窓生名簿から現存者・消息不明者・物故者・合計(在籍者)の人数を数えてみると、教職員の内訳は50人(現存)、49人(物故)、2人(不明)、計101人、同窓生の内訳は1352人(現存)、207人(物故)、66人(不明)、計1625人になる。この数字がもし正確だとすると、創立90周年記念大会には教職員現存者の6割弱、同窓生現存者の3割強が参加したことになり、これも驚異的な数字だという他はない。

 ところが、この記念大会の実行委員長を務めたある33期生の話によれば、90周年同窓会の話題が各地の新聞記事として紹介されると、その後ある日、「東郷小学校」出身のT氏(1932年、昭和7年生まれ)が同氏を訪ねてきたのだという。ハルビンの日本人小学校は、桃山・花園・桜・白梅・三稞樹・若松の6校だとばかり思っていた同氏は、このときはじめて「東郷小学校」が731部隊内の小学校であることを知ったというのである。「東郷小学校」の存在は、731部隊と同じく当時のハルビンにおいても軍事機密のなかの隠された存在だったのだ。

 敗戦直後、731部隊関係者はアメリカに全ての細菌兵器・化学兵器に関する実験データを提供する代わりに、戦争犯罪の追及を免れるという密約を結んで日本への帰国を許された。そのとき731部隊の居住区である「東郷村」に住み、「東郷小学校」に通っていた関係者家族も一緒に帰国した。ただし「一切の事を口外しない」という誓約の下である。こうして日本に帰国した関係者家族は、ハルビン時代の思い出の全てを死ぬまで身体のなかに封じ込めた。ただ全てを「墓場に持っていけない」当時の子どもたちの一部が「ハルビン桃山同窓会」の記事を見て、「ハルビン会」を訪ねてきたのである。(つづく)