731部隊遺跡跡地を取り巻く昨今の周辺市街化状況と保存整備計画の課題、中国東北部ハルビン市731部隊遺跡訪問記(2)

 戦医研の調査日程は、中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館(以下、731陳列館という)とハルビン市社会科学院731研究所(以下、731研究所という)の協力の下に組まれた。2004年以来、すでに8回に及ぶ訪問調査を通して両国の共同研究も各方面で進んでおり、本来ならば直ちに研究会や意見交換会が開かれてもおかしくなかった。

 しかし今回は、学生2人と私の3人が初めての訪問ということもあり、またこの間の中国側の調査研究や遺跡跡地保存整備計画が急速に進んでいることもあって、731部隊本拠地の平房区遺跡と陳列館展示物およびハルビン市内の関連施設遺跡の視察に相当の時間が割かれることになった。このことは、都市計画的視点から遺跡跡地のあり方を考える上で大いに参考になったし、また現在、同遺跡の世界遺産登録の準備を進めている中国側との意見交換の上でも非常に役立った。

 率直に言って、陳列館の細菌・化学兵器に関する膨大な展示物は専門的知識が必要なこともあり、私がどれだけ理解できたかについては自信がない。しかし「百聞一見に如かず」との言葉もあるように、およそ6キロ四方(正確には37.7平方キロ)の731部隊遺跡跡地の一角に立った時、森村誠一氏の著作(『悪魔の飽食』など)をはじめ、これまで読んできた数々の断片情報が身体のなかで一瞬にして立体化するのを感じた。

 ハルビン中心市街地から南へ約20キロ離れている平房区は、かっては人影もまばらな農村地帯だった。それが1936(昭和11)年春のある日、関東軍が散在する農村の中央部に突然「特別軍事地域」を設定し、1600戸余りの農家に対して期限を切って強制立ち退きを命じた。その日から測量が始まり、3年後には一大軍事基地が姿を現した。荒涼たる大地のなかの高電圧鉄条網、塀、空堀で囲われた広大な秘密基地・・・、これが私の731部隊のイメージだった。

 ところが今回私たちが訪れた平房区は、もはや大都市郊外の急成長しつつある市街地に変貌していた。無理もない、あれからもう70年余りも経っているのである。1940(昭和15)年の国勢調査当時人口約61万人だったハルビン市は、2008年現在市区人口267万人、都市圏人口475万人の大都市へと成長し、さらに中国政府の「東北部大開発」路線に則って目下急成長に次ぐ急成長を遂げていた。

ハルビン市区のなかでこれまで比較的都市化の遅れていた平房区も、目下急ピッチで工場開発・住宅地開発が進んでおり、地区の至る所で工事用クレーンが林立していた。平房区人口はまだ20万人に達していないが、現在進行中の開発速度からみると、あと10年で30万人に達することはほぼ確実だろう。とにかく凄まじい勢いで田園地帯の都市化が進んでいるのである。

 なぜこのようなことを書くかというと、731部隊遺跡跡地を取り巻く周辺状況がこれまでと一変し、よほどの計画的な保存整備事業を進めなければ、遺跡跡地自体が市街化の波に呑まれてしまうような大規模な開発ブームが周辺一帯で起きているからだ。この間の事情は、金成民731部隊陳列館館長の論文、「731部隊跡地の価値の調査・評価、現状保護及び計画」(『15年戦争と日本の医学医療研究会会誌』第11巻第2号、2011年5月)の付記、「731部隊遺跡跡地を保護する歩み」によって知ることができる。

 金論文は、遺跡跡地保護の歩みを4段階分け、(1)第1段階:1945〜81年、(2)第2段階:1982〜98年、(3)第3段階:1999〜2005年、(4)第4段階:2006年〜現在に区分している。第1段階は、731部隊が研究施設を爆破して撤退してから約30数年間、遺跡・跡地保護が政府からも自治体からも事実上放置されていた時期である。周辺の工場や企業が遺跡跡地内で(勝手に)工場や社宅を建てて操業し、また焼け残った隊員宿舎には多くの住民が移り住んだ。これは私の推測だが、日本でも戦後の混乱期には戦災で家を失った人や引揚者たちが軍施設を占拠して雨露を凌いでいた時期があったように、中国でも同様のことが起こったのであろう。そしてこのような占拠状態が長引くと、やがて土地や住宅が払下げとなり、改造や増築、新築も自由に行われることになる。このままの状態が続けば、731部隊の遺跡・跡地は遠からず消えて行くことは確実だった。

第2段階は、中国政府が「日本の中国侵略罪行遺跡を保護する通知」(1982年10月)を発布し、それを契機にハルビン市が調査研究機関を設立して遺跡保護の作業を開始した時期である。ハルビン市は、黒竜江省の援助も得て731陳列館の建設や展示物の公開、跡地内の特別保護区域・重点保護区域・一般保護区域の設定などこの間着実に保護活動を具体化させた。

思うに、中国政府の731部隊遺跡保護のきっかけが、森村誠一氏と下里正樹氏による精力的な731部隊に関する検証作業であり、それを基にして発行されたベストセラー『悪魔の飽食』シリーズの影響によるものだったことは間違いない。両氏によって明らかにされた「関東軍防疫給水部本部満州七三一部隊要図」および731部隊航空班・写真班によって撮影された731部隊全景写真は、いくら強調しても足りないほどの重要な歴史的資料であり、遺跡跡地の要所々々に建てられている案内図には、森村氏からの引用と断って731部隊の施設配置図と全景写真が大きく掲げられている。

第3段階は、ハルビン市と黒竜江省が保護計画にしたがって第1期遺跡保護事業を実施した時期である。遺跡跡地の上に建てられていた143戸の住宅と12企業を移転させ、遺跡跡地の部分的発掘と修復など一連の整備作業を行い、整備された遺跡跡地が公開された。漸くにして731部隊遺跡跡地の一角が姿を現したのである。これと同時に、731遺跡を世界遺産に登録するプランがハルビン市社会科学院・平房区政府などから提起され、世界遺産を目指して保護活動を一層拡大していくことが確認された。

第4段階は、731部隊遺跡跡地が政府国務院から「全国重点文物保護単位」(2006年5月)として公布されたことを契機に国家文物局が調査に訪れ、遺跡跡地の保存利用計画が国家プロジェクトとして本格的に推進されるようになった時期である。ハルビン市は、遺跡跡地の中央部を保護区として整備するため、目下186戸の住宅と11企業の移転問題に取り組んでいる。しかし日本でもそうであるように、都市再開発にともなう住宅や店舗、事務所や工場の移転は容易でない。731部隊遺跡跡地の保存整備計画は、現存する遺跡や跡地をそのまま保存するのではなく、その上に住んでいる住民や企業の移転を含めて考えなければならないところに特別の困難さがある。(つづく)