大義と必然性のない合併協議で紛糾した石巻地域合併協議会、平成大合併がもたらした石巻市の悲劇(3)、(震災1周年の東北地方を訪ねて、その37)

 平成大合併における石巻市関連の各種記録(石巻地域合併協議会議事録、宮城県市町村課資料、日本都市センター合併情報など)を読むと、無理難題な広域市町村合併がいかに住民自治を侵害し、災害非常時における地域対応力を奪ってきたかがくっきりと浮かび上がってくる。そこには大震災発生時における救援対策はもとより、その後の復興対策においても中心市の旧石巻市地域に比較して周辺の旧町地域が著しい「劣等処遇」(差別的な取り扱い)を受けるようになった背景が明確に見て取れる。

 もともと石巻地域の広域合併は、宮城県がいうような「生活圏の一体化」とか、市町村間の「広域連携」など、市町村間の下からの積み重ねがあって実現したものではない。理由はきわめて単純明快で、要するに行政コスト(特に人件費)の高い小規模自治体を一挙に解消するためには、「法定人口20万人」が要件である“特例市”への昇格を名目にした市町村合併が(国や県にとって)得策であったということにすぎない。

つまり“特例市”をつくるためには、それに足るだけの人口を持った市町村を形式的にでも合併させなければならない。そこで、県の石巻地方振興事務所が管轄する1市9町(2000年当時、合計人口23万1千人)を取りあえず「中核都市創造型」などという尤もらしい名前をつけ、強引に広域合併させる案が浮上しただけの話なのだ。

 しかし、大義と必然性のない広域大合併は難航に難航を重ねるしかなかった。そのプロセスを辿ってみると、「離合集散」や「合掌聯合」などとにかく複雑極まりない動きが展開されたという他はない。以下はその簡単な経緯である。

(1)2002年7月:県の強力な働きかけにより1市9町の首長と議会議長で構成する「石巻広域合併調査研究会」が発足。2003年1月末に任意合併協議会を設置する方針を確認

(2)2002年12月:矢本町鳴瀬町石巻市中心の合併による行政水準の低下を懸念して2町合併を選択し、任意協議会への不参加を表明。女川町も原発交付金による潤沢な財政事情を背景に不参加を表明

(3)2002年12月:菅原石巻市長が石巻ルネッサンス館をめぐる架空工事捏造問題を議会で追及され、市民のリコール運動によって辞職。中心市の混乱で合併協議も一時休止

(4)2003年1月:土井氏が広域合併を公約に掲げて石巻市長に当選し、合併協議を再開

(5)2003年2月:牡鹿町が女川町との合併を目指すとして任意協議会への不参加を突然表明。上記4町を除く1市5町で「石巻地区1市5町任意協議会」を設置

(6)2003年5月:牡鹿町の合併申し出に対して女川町が拒否し、牡鹿町が任意協議会に参加(復帰)

(7)2003年7月:石巻市河北町雄勝町河南町桃生町、北上町、牡鹿町の1市6町による法定協議会、「石巻地域合併協議会」を設置

(8)2004年3月:河北町石巻市寄りの合併内容に対する不満から合併協議会を離脱。「石巻地域合併協議会」を休止して「石巻地域1市5町合併協議会」を設置

(9)2004年8月:河北町住民投票と議会決議を経て合併協議会に復帰。「石巻地域合併協議会」を再会

(10)2004年10月:1市6町で合併協定調印

(11)2005年4月:合併特例法の期限内に石巻市誕生

 この経緯のなかの最大のポイントは、県の組合せ案で当初提示された1市9町の「中核都市創造=特例市構想」が矢本町鳴瀬町・女川町3町の不参加によって崩壊したことだ。1市6町の合併人口が17.5万人でしかなく、20万人という特例市要件を大きく下回ることになって、特例市の実現が不可能になったのである。

この事態は、特例市への昇格のために「対等合併やむなし」で臨んできた石巻市市議会の態度を急変させた。中心市である石巻市への「吸収合併」の本音が噴き出し、「対等合併」を要求する周辺6町との間で対立が激化した。最終的には「名を捨てて実を取る」作戦で石巻市市議会が矛を収めたが、その後の「新市計画」の策定は、議員定数や選挙区設定をはじめ、市役所の位置や旧町役場の取り扱いなどが悉く旧石巻市のイニシャティブを進むことになった。(つづく)