なぜ、雄勝町地区の復興まちづくりは進まないのか(四)、雄勝地区での「復興まちづくり」の信じられないような実態、平成大合併がもたらした石巻市の悲劇(13)、(震災1周年の東北地方を訪ねて、その47)

雄勝地区の復興まちづくりの第1ステージは、市当局・雄勝支所が地区会長(集落代表など)らに呼び掛けて「雄勝地区震災復興まちづくり協議会」を発足させ、亀山市長に「高台移転促進を求める要望書」を提出させた2011年5月から7月までの2ヶ月間だ、と以前に書いた。だが、これだけだと雄勝地区住民の意見が「高台移転促進」にまとまっているように見えるが、実態は必ずしもそうではない。

まず第1に、震災前に4300人程度いた住民がほとんど地区外に避難し、地区内には僅か1000人余りの住民しか残っていなかった当時の状況を考えなければならない。これは市当局が地区内に避難所も仮設住宅も十分に確保できなかった(しようと努力しなかった)ことから引き起こされたもので、被災者が各地に分散して散りじりバラバラになってしまっていたのである。だから、同じ場所に住んでいた人びとが互いの行方もわからないような状況の下で、いったいどうやって復興まちづくりの協議が進められるのか、想像もつかない。その結果、まちづくり協議会の内実は、一部の地区会長(集落代表)や公募外部委員を除いてはほとんどの人が発言せず(発言しようにも集落が壊滅していて住民がいないので地域の意見を代表する条件がない)、議事進行が事務局(支所担当者)主導で進められたのはいうまでもない。

しかしよく考えてみれば、この事態は“雄勝版ショックドクトリン計画”の進行としか言いようがない状況だ。震災直後、被災者が避難所暮らしで困窮を極めているなかで、しかも互いの連絡すら取れない状態の下で「復興まちづくり」の協議を始めることなどおよそ論外だというべきだろう。まずは被災者救援に全力を尽くして被災者間のコミュニケーションを復活させ、生活が一定の落ち着きを取り戻してから議論を始めても遅くない。またそうでなければ、住民の意見や要求を反映した復興まちづくりの議論などできるはずがないからだ。

第2に、復興まちづくり協議会が実施した唯一の住民意向調査ともいうべき雄勝地区全世帯対象の住民アンケート調査(2011年7月)において、「今後も雄勝に住みたい」「条件が整えば雄勝に住みたい」との回答が過半数を占めているにもかかわらず、まちづくり協議会の結論がなぜか「高台移転促進」にすり替えられていたことだ。アンケート調査は、雄勝地区1637世帯中、死亡世帯などを除く1562世帯に郵送され、777世帯(49.7%)が回答した。回答世帯のうち620世帯79.8%は住宅が全壊し、雄勝地区内で生活しているのは僅か164世帯21.1%に留まった。結果は「今後も雄勝に住む、住みたい」172世帯22.1%、「雄勝に住みたいが条件・環境次第」267世帯34.4%、「まだ決めていない」186世帯23.9%、「雄勝には住まない」144世帯18.5%というもので、5月に市が実施した「まちづくり(都市基盤整備)アンケート」とは正反対の結果が出た(三陸河北新報、2011年7月21日、以下同じ)。

また「今後も雄勝に住む、住みたい」「雄勝に住みたいが条件・環境次第」と回答した439世帯に対して、「雄勝に住むために早急に必要なもの」(複数回答)を尋ねたところ、土地・家屋31.0%、公共施設(病院・郵便局)・商店28.0%が挙げられ、施設の望む場所は「以前の家の場所」33.6%、「以前の地区であればよい」24.4%、「高台などの混在新規宅地でよい」27.1%だった。つまり雄勝地区住民の多くは住み慣れた地区での生活を望んでいるのである。  
ところが驚いたことには、復興まちづくり協議会では「要望書を市長に提出する段階ですでに協議会内部では 会議では、一部の委員から「時間が経つに連れ、高台ではなく元の居住地で生活を望む住民が増えてきた」という意見もあった。同じ被害を繰り返さないため、移転を望まない住民には粘り強く説明し、理解を求めていくことで一致した」(三陸河北新報、2011年7月30日)という。これでは初めから「高台移転ありき」の結論があって、住民アンケート調査でいかなる結果が出ようと「意に介さない」ということになる。

このような経緯を経て、雄勝地区の「復興まちづくり」は2011年8月以降、第2ステージに移る。だが、この段階になるともはや復興まちづくり協議会の協議とは関係なく、雄勝支所担当者の手で「高台移転計画」が一方的に進められていくようになる。10月半ばには、雄勝支所から地区全1211世帯に対して突如「高台移転意向調査」が実施され、2週間以内に回答を求めるとしたが、結果は過半数が「まだ決めていない」「無回答」であり、担当者が意図した「高台移転へのゴーサイン」を得るまでに至らなかった。しかし、計画作業は止まらなかった。

第3ステージは、『石巻市震災復興計画(素案)』が2011年11月7日に公表され、11月15日から27日まで市民との意見交換会が各地区で開催されたときから始まる。雄勝地区は最終日の11月27日、亀山市長以下市幹部が全員出席して意見交換会が開催され、そこではじめて「「こんな計画、賛成できるか」「真面目に議論する気ねえだろ」。昨年11月下旬、石巻市雄勝総合支所の集会室は怒号に包まれた」(河北新報、2012年3月18日)という地区状況が明らかになったのである。

これはあくまでも私の推測だが、当日会場での「雄勝エリアの素案は雄勝総合支所からあがってきているもの。本庁は住民との話し合いのもとに方針が出されたと理解していた。今回、いろんな意見が出たので改めて総合支所と検討していきたい」(ブログ『石巻市雄勝町の復旧復興を考える』から引用、以下同じ)という市長発言から考えると、雄勝地区の復興まちづくりに関する情報は必ずしも市当局に正確に伝わっておらず(本庁もそれほど雄勝地区には関心がなく支所に任せきりだった)、復興まちづくり協議会の意見がそのまま「雄勝地区の総意」として理解されていたためであろう。

このことは、「支所の計画の練り方は、まちづくり協議会との積み重ねで出したものだが、今日はこういう(建築規制反対、かさ上げで住みたい)話が圧倒的に多かったということで、もう一回調整しながらとりまとめという方向で進めていきたい」という支所長の発言によっても裏付けられる。それでは雄勝地区の意見交換会会場で、いったいどんな意見が住民から飛び出したのか。次回はその内容を紹介したい。(つづく)