「プラン」だけで「ドウ・シー・チエック」のない計画行政学は成立するのか、福島原発周辺地域・自治体の行方をめぐって(その6)、震災1周年の東北地方を訪ねて(77)

 計画行政学会(計画理論研究専門部会)編の『東日本大震災の復旧・復興への提言』(以下、『提言』という)を一読して感じることは、この学会には「プラン」という文字はあるが、「ドウ・シー・チエック」の概念が欠落していることだ。どんな計画学の教科書でも書いてあるように、計画は「プラン・ドウ・シー・チエック」(計画・実行・点検・評価)の“PDSCサイクル”のなかで初めて成立するのであって、「プラン」だけが独り歩きできるわけがない。

ところが不思議なことに『提言』は、「序章、計画理論研究からの東日本大震災についてのアプローチ」という大げさな見出しで始まるものの、その中身は「復興の前提条件と中長期的方針の必要性の提示」(第1章)、「復興の計画過程、復興特別区域制度の紹介」(第2章、第3章)、「復旧・復興に関する議論の論点整理」(第4章)というもので、「プラン」(作成プロセス)だけに焦点が当てられ、「ドウ・シー・チエック」(検証プロセス)に相当する部分がどこを探しても見当たらないのである。 
 計画は“無”から始まるのではない。新しい計画を「プラン」しようとすれば、これまでの計画の「ドウ・シー・チエック」からスタートするのが常道というものだ。計画が目的通りに実行されたか、実行されなかったとすればどこに原因があるのかなど、従前計画の綿密な点検作業がまず必要であり、次に計画の結果が満足できるものであったか、計画の内容や方法に問題点はなかったか、改善点はどこかなど、厳密な評価作業があってはじめて次の新しい計画への道が開けるというものだ。

こんな問題意識を持って『提言』を幾度となく読み返してみたが、残念ながらそこには東日本大震災を引き起こした原因の究明や行政責任の所在に関する記述は一切発見できなかった。論点整理ひとつを取って見ても、巨大津波に対してあまりにも無力だった土木建設事業偏重の防災行政(旧建設省)に対する反省もなければ、市町村の災害対応行政を決定的に弱体化させた平成大合併(旧自治省)に関する検証もない。すべては「想定外」の大災害であるから、政府の政治責任や各省庁の行政責任などは問題外であり、災害原因の究明も責任追及の必要もないと(でも)いうのであろうか。

原発災害に関して言えば、もちろん「原発安全神話」を振りまいてきた原子力政策(旧通産省)への言及も一切みられないし、いわんや未曾有の原発災害を引き起こした東京電力の事業者責任についてもまったく「どこ吹く風」というところだ。“地震列島”といわれる世界有数の地震多発地帯の日本列島になぜ54基もの原発がつくられてきたのか、世界にも類を見ない原発集中立地(若狭湾原発銀座」14基、福島第1原発6基など)がなぜ日本だけに出現しているのか、原発立地が日本の国土計画や各県の総合計画のなかでどのように位置づけられてきたのか等々、計画行政学会が解明しなければならない計画理論課題は山ほどあるにもかかわらず、それらに関する記述や分析は皆無なのだ。

前回の日記で紹介した「4.8.1、原発周辺区域への国の対応」に関して言えば、この一節は、計画行政学会の体質(役割)を象徴するものとして長く記憶にとどめられるべき文章だと言える。そこでは「原発周辺の警戒区域内は住民が住めない」、「その意味で、警戒区域内20キロ圏に入っている双葉・大熊・浪江・富岡・楢葉5町を廃町とする」、「5町の土地は国が買い取り、住民は土地なしで他の市町村に合併する」、「計画的避難勧告区域でも類似した国の対応が必要である」、「国が買い取った土地は国有地として使用を制限する」といった対策が“論点整理”されている。

だが、これは「原発災害事後処理対策」といった類のもので、とうてい「計画」といえるような代物ではない。原発6基を集中立地させた国の責任を問うこともなく、炉心溶融という重大な原発事故(シビア・アクシデント)を引き起こした東京電力の事業者責任を追及することもなく、ただその“後始末”の方法を考えているだけのことだ。それも原発周辺地域の自治体や住民の意向を無視してのことである。

マスメディアにおいても度々指摘されるように、今回の原発災害に関しては誰も責任を取っていない。「原子力ムラ」「開発ムラ」の面々も表向きは反省する振りをしながら、本当の意味での責任を巧みに回避して事態の終焉を待っている。計画行政学会の『提言』はまさに「原子力ムラ」「開発ムラ」の期待に応えるものであって、原因究明と責任追及をともなわない“後始末”の役割を果たそうというものだ。それは滅多に「責任を取らない」官僚体質を反映したものでもある。

 このような体質は、「原子力ムラ」「開発ムラ」のボスたちが会長を務めてきた計画行政学会の出自に起因する“母班”とも言うべきものでいまさら驚くことではないが、学会会長の大西氏が2011年10月に第22期日本学術会議会長に選出され、ほぼ同時に閣議決定にもとづく「国家戦略会議フロンティア分科会座長」に指名されたことは、単なる偶然とは見えない出来事のように思える。(つづく)