役場が戻れた町、戻れない町、広野町の場合、福島原発周辺地域・自治体の行方をめぐって(その11)、震災1周年の東北地方を訪ねて(82)

福島原発周辺自治体の調査に入るまで、私はもっぱら宮城県石巻市雄勝地区(旧雄勝町)をウォッチングしてきた。雄勝地区の復興計画は、東日本大震災復興まちづくりのなかで「ワーストワン」の名に恥じない全国最悪の事例であり、その実態をどうしても全国に知らせなければならないと思ったからだ。

だが宮城県の場合、雄勝地区の事例は決して特殊例ではなく同様の事例は数多くある。ただ地元紙をはじめ全国紙でも報道されていないだけだ。浅野知事時代の平成大合併によって多数の町村(小規模自治体)が消滅して地方自治・地域力が奪われ、そのうえ村井知事の「選択と集中」を原則とする復興政策が上意下達で実施されているのである。これに比較して今回の調査した福島県双葉郡原発周辺自治体3町村は、いずれも平成大合併の暴風雨を免れた小規模自治体であることに大きな特徴がある。

原発周辺自治体が合併しなかった(しなくてもよかった)理由は、皮肉なことに原発電源交付金による潤沢な財政事情によるものであった。これらの自治体では、合併しなければ財政が悪化して住民サービスが出来なくなるといった脅しに屈する必要がなく、小規模自治体でもゆとりのある行財政運営が可能だったからである。そして原発電源交付金は事故後の現在も交付され、今度は原発災害からの復興事業に充てられている。このような悲しくも皮肉な事情が背景にあることを踏まえながら、原発周辺自治体がどのような状態に直面しているかを聞いてほしい。

まず広野町である。いわき市に隣接する双葉郡南端の広野町は、原発事故発生前、人口5490人、世帯数1989世帯の小規模自治体だった。2011年3月12日に福島第1原発1号機で水素爆発が発生し、第2原発から10キロ圏内、第1原発から20キロ圏内の地域に避難指示が出された。これを受けて翌13日には町長が全町民に避難指示を発令し、それとともに役場(機能)も15日に西隣の田村郡小野町に緊急避難した。役場は1カ月後の4月15日に再びいわき市に移転し、4月22日に広野町全域が「緊急時避難準備区域」に指定されたのを契機に本格的な避難生活が始まった。

幸い広野町の場合は放射線量が相対的に低かったため、「緊急時避難準備区域」が解除されたのは2011年9月末と意外に早かった。広野町は住民の帰還を早めるため、まず2012年3月1日に役場機能を元の本庁舎に戻し、31日には町長が避難指示を解除して町民帰還に向けたメッセージを発表した。小中学校、幼稚園、保育所が町内で再開されたのは、それから数カ月後の8月27日のことである。ただし園児や児童生徒のほとんどは避難先から通学しているのだと言う。

広野町への道はいわき市から入れば便利だが、宮城県石巻市から行こうとすれば東北・磐越・常磐の高速道路を走るしかない。しかも運転免許を持っていない私は誰かに運転を頼る他はなく、新幹線福島駅前でレンタカーを借りて案内してもらうという方法を取らざるを得なかった。行程は高速道路百数十キロを走り、常磐自動車道が通行止めになる広野インターで降りてから市街地に入るというものだ。広野インター以北の高速道路や一般道路は全て閉鎖されていて立ち入り禁止となっている。警察機動隊がいまも24時間警戒に当たっているのである。

広野町いわき市に隣接しているだけあって、工事車両がやたらと多い。原発事故対策の拠点施設となった有名な「Jヴィレッジ」が役場から約2キロの近傍にあって(立地場所は楢葉町)、毎日数千人にも上る原発作業員が原子炉の保安工事や廃炉工事の準備のために出入りしているからだ。また市内道路の沿道には作業員向けの少なくない飲食店や旅館が営業を再開していて、これがつい最近まで全町民が避難していた町だとは一見思われないほどの「活気」を呈している。

だが役場とともに帰還した住民は、2012年10月23日現在、まだ1割程度の544人、317世帯に過ぎない(『広報ひろの』2012年11月号)。市街地周辺には住民の姿は人っ子ひとり見えず、道路を歩いている人もいない。まして子どもを連れたお母さんやベビーカーの赤ちゃんを見かけることなど絶対にない。役場に到着して会った職員が、最初に出会った町民だったというのが現実の厳しい姿なのだ。

訪れた役場は職員の他には誰もいなかった。普通ならカウンターの前で多くの町民が行き来しているのだが、ここには誰もいないのだ。僅かに玄関横の部屋で東京電力原発災害賠償の相談会を開いていたのが唯一の動きらしい動きだった。また役場には図書館が併設されているが、こちらの方は照明が落とされていて薄暗く、室内は不気味なほど静まり返っていた。しかし、私の相手をしてくれた幹部職員(企画グループリーダー)は意外にも元気一杯で、「何とかする」「何とかなる」との気概に溢れていた。(つづく)