避難の継続か帰村か、原発災害によって引き裂かれる被災者の苦悩、“帰村宣言”は現実のものとなり得るか(2)、福島原発周辺地域・自治体の行方をめぐって(その18)、震災1周年の東北地方を訪ねて(89)

川内村の“帰村宣言”をめぐる行政と被災者の葛藤、そして避難の継続か帰村かの間で揺れる被災者の苦悩は、原発災害がもたらす悲劇の本質とそこから生じる復興の困難さを象徴するものだろう。原発周辺自治体は、事故発生後から東京電力や政府の無責任・無能な対応によって確たる指示もないままに放置され、避難するか留まるか、避難するとすればどこに避難するか、避難生活を如何に維持するかといった緊急事態への対応はすべて自ら判断する他はなかったのである。

また原発災害の際立った特徴として、放射能汚染に対する被災者の恐怖感や拒否感には大きな差があり、このため自然災害時のような被災者の一致結束した行動が生まれにくかったことだ。だから「災害ユートピア」といった被災者間の自然発生的な「助け合いコミュニティ」の形成も難しかった。ある人は近くでの避難に思いとどまったが、別の人は遠く西日本や沖縄まで避難した人もあるなど、被災者の判断によって避難先が各地に分散したのである。

役場でもらったパンフレット・『復興元年〜100年後も輝くふるさと〜』(東日本大震災東京電力第一原子力発電所事故、2011.3.11〜2012.7.31、川内村の記録)によると、川内村役場は原発事故発生翌日の3月12日、自らの判断で避難してきた富岡町役場と合同災害対策本部を設置して(富岡町からの避難者は一時6千人にも上った)緊急対応に当たる態勢を整えた。3月15日には政府の「半径20〜30キロ圏屋内退避区域」の指示などとは関係なく(無視して)、役場を閉鎖した上で住民に“自主避難”を促し、16日には自主避難を決定して避難先の郡山市(「ビッグパレット」)への移動を完了した。役場仮庁舎が避難先で業務を開始したのは4月12日のことだ。

しかし多くの住民は、役場から「自主避難指示」が出される前にすでに思い思いの場所に避難を初めていたので、避難場所は多岐にわたっている。『川内村避難所内訳書』(2012年11月8日9時41分現在)によれば、事故発生当時の人口は3038人(住民基本台帳未登録10人を含む)であり、2012年11月現在の市町村別避難所内訳(再集計)は次のような数字になる。

(1)村内居住408人(13.8%)(うち86人・48戸は村内仮設住宅入居者)
   (半帰村1165人、週4日以上一時滞在者をカウント)
(2)郡山市1372人(45.2%)
   借り上げアパート711人(23.4%)
   仮設住宅661人(21.8%)
(3)いわき市414人(13.6%)
   借り上げアパート311人(10.2%)
   仮設住宅103人(3.4%)
(4)田村市138人(4.5%)
   借り上げアパート96人(3.2%)
   仮設住宅42人(1.4%)
(5)その他県内184人(6.1%)
   避難所他118人(3.9%)
   借り上げアパート66人(2.2%)
(6)県外避難429人(14.1%)
(7)死亡83人(2.7%)
(8)住民基本台帳未登録10人(0.3%)

これらの避難所内訳の現状から言えることは、①避難者の半数近くが郡山市に集中している(45%)、②1/4が近傍市町村に分散避難している(24%)、③県外避難者は相対的に少ない(14%)、④帰村者はいまだ少数である(14%)というものだ。しかし、⑤川内村に週4回以上帰村する「半帰村者」が4割近くに達するなど避難先と村の交流は密接であり、このことが将来の“帰村”につながる希望となっている。

それでは避難者に対するアンケート調査・「村の復興と行政機能再開に向けた帰村の意向調査」(2012年2月)についての結果を見よう。(つづく)