京都の同志社大学で「立憲主義と平和主義を考える」シンポジウムが開催された、各地域での「96条の会」結成が当面の急務の課題だ(その3)、改憲勢力に如何に立ち向かうか(16)

 参議院選挙を目前に控え、祇園祭宵山を迎えた7月16日、同志社大学グローバル・スタディーズ研究所の主催で「立憲主義と平和主義を考える」シンポジウムが開かれた。研究所が定期的に開催している公開セミナーの第39回目にあたる企画だと言うが、中身は東京での「96条の会」発足記念シンポジウムに勝るとも劣らない充実したものだった。

 それもそのはず、登壇者の顔ぶれが「96条の会」代表の樋口陽一氏をはじめ、石川健冶(東大教授、憲法学)、斎藤純一(早大教授、政治理論)、杉田敦(法大教授、政治理論)、千葉真(国際基督教大教授、西欧政治思想史)の「96条の会」発起人各氏が顔を揃え、伊藤和子(国際人権NGОヒューマンライツ・ナウ事務局長)、吉田容子(立命大教授、人身売買禁止ネットワーク共同代表)、若尾典子(仏大教授、ジェンダー研究)の3人の女性論客が加わったのだから、まるで「ミニ憲法学会」のような様相を呈するシンポジウムとなった。

 これだけの顔ぶれが揃ったのは、発起人の一人である岡野八代(同大教授、西洋政治思想史)氏が「96条の会」の京都でのお披露目を兼ねてシンポジウムを企画されたからであり、それに応えて東京から数多くの発起人が参加されたためだ。多忙な学期末の日程を調整して駆けつけられた登壇者各位の熱意に心からの敬意を表したい。しかしそれだけに、登壇者に十分な発言時間の枠がなかったことは本当に残念だった。なにしろ登壇者の一人ひとりが基調報告をするにふさわしい論客だったからだ。詳しい報告はいずれグローバル・スタディーズ研究所の機関誌で発表されると思うので、ここでは私の簡単な印象だけを記すにとどめたい。ひとつは「立憲主義と平和主義」の関係、もうひとつは「立憲主義と民主主義」の関係についてである。

 今回のシンポジウムのテーマが「立憲主義と平和主義を考える」であるように、「立憲主義憲法96条」と「平和主義=憲法9条」の関係をいかに考えるかということが主題だった。登壇者がいずれも護憲論者だったこともあって、議論は日本国憲法の規定する立憲主義がいかに「平和主義=9条」と内在的に結合しているかという点を中心にして進められたように思う。

 この論点は、96条の議論を(戦術的には)9条と切り離して考えようとしていた私の浅薄な思考に対して厳しい反省を迫るとともに、今後に予想される護憲派改憲派との間の「平和主義=9条」の理解をめぐる本格的論争への視点を提供するものだった。つまり日米軍事同盟を前提とした「集団自衛権国防軍の確立=9条の廃棄」といった自民党改憲案は論外だとしても、一国の平和を維持する上での自衛力を保持するために9条の改定を考えようとする「平和主義」との論争をいかに発展的に組織するかという問題である。

 この点に関する女性論客からの指摘は鋭かった。軍隊や戦争は、従軍慰安婦問題に象徴されるように常に女性への性暴力や人権否定をともなう表裏一体の存在であり、9条の持つ絶対平和主義への訴求力がどれだけ世界の平和勢力を励ましているかについて多くの発言が出された。また9条の存在が国会から戦争加担への権限を奪い、自衛隊シビリアンコントロールの後ろ盾となり、国家の防衛予算の歯止めになってきたという、国家権力に対する民主的統制の意義についても強調された。

 もうひとつの論点は「立憲主義と民主主義」の関係である。ナチスがワイマール憲法の民主的条項(議会選挙、国民投票など)を利用して専制政治ファシズム)を実現していったような事態をどう見るかという問題である。この点に関しては、立憲主義の基本は「人間の尊厳=個人の尊重」という人類の普遍的価値に置かれているのであって、これを一時的な「議会の多数派」による「決められる政治」によって改変するようなことがあってはならないことが異口同音に強調された。

 民主主義の担い手は国民主権者でなくてはならず、しかもそれは過去から現在および将来の民意を代表する歴史的存在としての国民主権者でなくてはならない以上、立憲主義と民主主義は常に緊張関係にあり、96条はその微妙なバランスを体現した条文だとの指摘もあった。また立憲主義は民主主義の発展によって彫琢されるのであり、一時的な議会多数派の「数の論理」によって支配されるようなことがあってはならないとの指摘もあった。

 こうした憲法をめぐる政治状況をみるとき、これまでの「改憲勢力=保守」VS「護憲勢力=革新」とする見方やネーミングを改める必要があるのではないかとの興味ある論点も出された。改憲勢力が現行憲法を「古い」としてあたかも憲法を革新するがごとき姿を装い、護憲勢力が保守的な受け身の立場に立たされているとの指摘である。「保守VS革新」が歴史的な政治用語として定着してきたことは否定しがたいが、時代の変化につれて保守と革新の立ち位置も変化する。護憲勢力を表現するもっといい言葉を見つけなければいけないという問題意識は、私も含めて多くの参加者の共感を得たと思う。

 最後の締めくくりとして発言された樋口氏の言葉のなかに、「一国憲法主義は成立しない(できない)」との興味深い言葉があった。自民党政権がグローバル経済を推進する立場から一方では西欧諸国と共通の価値観に立つと言いながら、他方では自民党改憲案が天賦人権説を否定して個人の存在を抹消し、天皇の元首化を推進しようとするなど、極めて閉鎖的な「一国憲法主義」を掲げている抜き差しならない矛盾に関する指摘である。

 この「一国憲法主義」の矛盾は、すでに安倍首相の「侵略の定義はない」などとした歴史認識上の問題として中国や韓国との間で激しい軋轢を生んでおり、それらを集大成した自民党改憲案は今後欧米諸国との間でも同様の問題を引き起こすことは必至だろう。その意味で、自民党改憲案は世界人権宣言や立憲主義の世界的スタンダードからの「離脱宣言」だともいえ、国内外の厳しい批判を受けることは免れない。

 このシンポジウム会場で配られたチラシのなかに、「京都でも憲法について一緒に考えてみませんか」という案内があった。「第ゼロ回、京都96条の会立ち上がりシンポ」への誘いである。次回はその内容について説明したい。(つづく)