安倍内閣・自民党の高支持率を分析する(6)、「保守=改憲」、「革新=護憲」の構図をどう読むか、本当の保守とは憲法を守ることだ、維新と野党再編の行方をめぐって(その9)

 一般的に言って、「保守」とは現存する体制を肯定すること、「革新」は体制を変革することを意味する。だが現在の憲法状況はそのあべこべであり、「保守=改憲」、「革新=護憲」というのだから話はややこしくなる。しかし、これを「保守政党改憲」、「革新政党=護憲」と読み換えると案外すんなりと理解できる。これは私たちが「保守層」と「保守政党」との違いを区別しないで認識しているためであり、両者の関係を整理して考えることの必要性を示している。

 こんなことを考えるのは、最近の世論調査においては保守政党支持者の間でも護憲派が多数派となり、自民党支持者が必ずしも改憲派ばかりだとは言えなくなってきたからだ。まして自民党員や自民党議員のなかにも改憲慎重論が徐々に増え始めていることを思うと、自民党政権とりわけ安倍政権と保守層との間に憲法をめぐって大きな「捩れ」(矛盾)が生じていることがうかがわれる。この矛盾状況をどう分析するかが、これからの護憲運動を発展させる鍵になると思うのだ。

 私の周辺にいる「保守層」すなわち自民党支持者のほとんどは、復古主義者でもなければ新自由主義者でもない、いわゆる「庶民」と呼ばれる普通の人々だ。この人たちのささやかな願いは日々の生活を安寧に過ごせることであって、なにも際立った変化や変革を望んでいるわけではないのである。神社に行けば「家内安全」とお札に書くように、家族の健康と無事を祈り、平和で平凡な暮らしが明日も続くことを願う気持ちが庶民の素朴な「保守意識=生活保守主義」の基層を形成しているのだと思う。私流の解釈で言えば、憲法25条のいう「健康で文化的な最低限の生活」の実現を願う庶民の心情が「保守層」の共通基盤になっているのである。

 だが「保守主義」といったイデオロギーやそのイデオロギーの下で組織される「保守政党」になると、「保守」の性格は温和な言葉の響きを超えて一変する。保守主義保守政党は歴史的には革命と民主主義への対抗概念・対抗組織として生まれ、その時代の支配体制を擁護(正当化)する政治イデオロギー政治結社として機能してきたからであり、この保守主義保守政党の階級的性格はいまもまったく変わっていないからだ。保守層と保守主義保守政党はこのように本来異なる概念であるにもかかわらず、これが意識的に混同して用いられているところに、自民党自民党支持者を同一視する誤りが生まれるのである。

 これは随分前の古い話になるが、蜷川京都革新府政(民主府政)の特質を共同研究していた頃、「憲法を暮らしに生かす」という蜷川知事の施政方針が「保守と反動を峻別する」という政治姿勢の下で実行されていたことを思い出す。蜷川知事はかねがね、「反動は歴史を逆転させるので対決せざるを得ないが、保守は現状肯定なので幅広く協調できる存在だ」と革新陣営を諭し、保守と反動を峻別した施政運営を行っていた。

 当時の蜷川与党は社会党共産党であったが合わせても少数与党であり、保守系無所属議員の協力を得なければ施政運営が不可能だった。蜷川知事は自民党を除く保守系会派と一貫して共同歩調を取り、彼らを決して自民党と同一視しなかった。そしてこの政治姿勢が幅広い府民の支持を得て安定した革新府政(民主府政)を実現し、「憲法を暮らしに生かす」蜷川府政の政治基盤となったのである。(ちなみに当時の反蜷川の急先鋒は野中広務自民党府議であったが、その野中氏が現在は護憲派として活躍しているのは興味深い)。

 私は、安倍政権は歴史を逆行させようとする正真正銘の反動政権だと思う。これまで自民党支持者のほとんどが自民党政権の支持者だったのは、それは自民党改憲を党是に掲げながらも改憲に踏み切らず(踏み切ることができず)、日本では戦後70年にわたって戦争がなく、一人の戦死者も出さないという稀有な保守的状況が続いてきたからだ。逆説的に言えば、自民党長期政権は皮肉にも憲法9条の存在によって持続可能になったのであり、憲法9条こそが自民党政権の保守的政治基盤を支えてきたのである。

 ところが、安倍政権は日々の安寧を願う保守層の心情を乱暴にも踏みにじり、強権強圧的に改憲路線へと急ハンドルを切った。安倍政権の言動に最初は戸惑っていた保守層が次第に不安を感じ、改憲路線の危険性に目覚め始めたのは当然の結果だった。このままで行けば国民が戦争に巻き込まれるかも知れず、集団的自衛権の行使容認に安倍政権が固執するのは、日本を「戦争をする国」にするためではないかと本気で疑い始めたのである。

 私は、本当の保守は日々の生活を安寧に保つことだと思う。だが革新勢力側の画一的観念は保守と反動の区別が付かず、憲法を守ることはすなわち「保革対決」することだとの固定的思考からいまだ脱していない。これは反動側が意図的に「反動」という鎧の本質を「保守」という衣で隠しているからであり、革新勢力がその意図を正確に見抜いていないからだ。たとえば、雑誌・文芸春秋の最新号(2014年6月号)の連続インタビュー『時代を刺激する論客人八人の本音』のトップバッター、多母神俊雄氏(元航空幕僚長)は次のように言う。

 「「保守」の踏み絵は「核武装」と「靖国参拝」だと思います。核武装に本気で反対する人はアメリカ派ですね。核武装したら国家が安全でなくなるなんて意見が通るのは日本だけです。軍事力は弱いより強い方が国家は絶対に安全なんです。日本人だけが軍事力が強くなると侵略戦争になると考える」

 だが、私たちはこんな見え透いた挑発に乗ってはいけない。「保守の踏み絵は核武装靖国参拝」などと決め付けるのは安倍・石原・多母神氏など一部の極右反動勢力であって、普通の保守層の考えではない。彼らは意図的に反動を保守と言い換えて革新側の反発を挑発し、保守層全体を改憲勢力に巻き込む計略なのだ。

 私は、本当の保守は日々の生活を安寧に保つことだと保守層に訴えるべきだと思う。そして安倍政権の改憲路線は庶民の生活を危険に曝すものに他ならないことをもっと強く保守層に訴えるべきだと思う。広範な保守層を安倍政権から切り離すこと、ここに当面する護憲運動の要諦があると思うのである。(つづく)