東京都知事選は“ショックドクトリン型選挙”なのか、当選させたい候補者がいないときは、当選させたくない候補者を落選させてほしい、東京都知事選を考える(その3)

 残念ながら、脱原発候補の一本化はならなかったようだ。表面的にみる限り、細川陣営にも宇都宮陣営にも「その気」がなかったらしい。これが日本の政治の現実なのだから仕方がないといえばそうだが、とにかく互いに誹謗中傷するような泥仕合だけは避けてほしい。

 この間、東京の友人(たち)とも何回か意見交換をした。東京でもいろんな意見や情報が飛び交っていて、全く状況が掴めないのだそうだ。東京から離れているお前の方がよくわかるんじゃないのと言われて、そうかも知れないと思うほど情勢は混沌としている。おそらくこの混沌状態は選挙中も続くのではないか。名護市長選のように一騎打ちだとわかりやすいのに――と彼らは苦笑していた。

 東京都知事選は、事実上の日本の大統領選挙だといってもいい。そんな大変な選挙であるにもかかわらず、1千万人の有権者が「たった1人」の候補者を「たった1回」の投票で選ぶのだから、蜂の巣を突いたような好況になるのも無理はない。混沌状態にならないほうがおかしいというべきなのだ。アメリカでは大統領の予備選挙が長期間にわたって州ごとに行われ、時間的にも地域的にも次第に候補者が絞られていく。その時間軸が決定的に重要であり、その間に国民的なコンセンサスが形成される仕組みになっているわけだ。

 都知事選でいつも不思議(奇妙)に思うのは、「後出しジャンケン」で決まる候補者の方が有利との風説がまかり通っていることだ。今回の都知事選は猪瀬知事の突然の辞任があったのでなおさらそうだが、告示の前日の立候補声明など聞いたことがない。これではどんな賢明な有権者でも判断に苦しむことだろう。政策はもとより候補者の人柄も1時間足らずの記者会見ではからしきわからないからだ。

 「後出しジャンケン」で候補者が決まるというのは、それだけ民主主義が成熟していないからだろう。有力者が水面下の談合で候補者を決定し、選挙直前になって幕をあけ、候補者を人気投票にかける。有権者は訳のわからないうちに選択を迫られ、棄権するか、知った名前を書くことになる。こんな粗雑なやり方で見識あるリーダーなど選べるはずがない。

 “ショックドクトリン”という言葉がある。アメリカのジャーナリストのナオミ・クラインの著書の題名だ。岩波書店から出た訳本には、「災害便乗型資本主義の正体を暴く」という副題が付いている。ニューオーリンズを襲ったハリケーンカトリーナ大災害のあと、ブッシュ政権や市当局が大災害に便乗して都市大改造に乗り出し、黒人や貧困層を一掃して観光都市にしようとした事例がそうだ(私も現地調査に行った)。日本の東日本大震災でも、大津波災害に便乗したゼネコン主導の土木事業がここぞとばかり行われている。

 私は今回の都知事選の一連の経過を見ていて、意味は必ずしも同じではないが、都知事選を“ショックドクトリン型選挙”ではないかと感じた。言わんとするところは、有権者が事態の本質を判断できず呆然としている間に選挙が行われ、あれよあれよという間に1300万都民のリーダーが決まってしまうことだ。討議民主主義、熟議民主主義などいったい「どこ吹く風」といったところだろうか。

 とはいえ、限られた条件の中であってもやはり東京都民には見識あるリーダーを選んでほしい。一時の気まぐれや人気投票で市長や知事を選んでしまうとどんなに酷い目に遭うか、それは現在の大阪府政や大阪市政の実状を一目見ればわかることだ。およそ首長にふさわしくない(正反対の)人物がいったん知事や市長の席に座ると、行政はもとより市民・住民生活はズタズタにされてしまうからだ。まさか東京ではこんなことは起らないだろうと思うし、また起こしてほしくもない。たとえ僅かな選挙期間中であっても、熟議熟考を重ねて見識あるリーダーを選んでほしい。

 私は東京の事情を必ずしもよく知っているわけではないが、今回の都知事選では「当選させるために」投票するのか、「落選させるために」投票するのかで有権者の判断が大きく分かれるように思う。前者であればことは簡単で、意中の候補者に投票すればよい。事実、それぞれの陣営は自らが擁立する候補者のために全力を挙げているのだから、その政策や候補者の人柄をよく見て投票すればよいし、積極的な支持者は周辺の人々に働きかけて頑張ってほしい。

 しかし東京のような大都会のことだから、意中の候補者がいない有権者も多いことだろう。数から言えば、むしろこちらの方が多数派と言えるのかもしれない。政党選挙でも無党派層が選挙の動向を決めるのと同じように、この人たちの投票行動が都知事選の方向を決すると考えても間違いない。とすれば、この多数派の人たちにどう訴えるのか。それは“当選させたくない候補者”を落選させてほしいということだ。つまりその候補者以外の候補者に投票してほしいということだ。

 考えてみれば、堺市長選も岸和田市長選も「当選させたくない候補者」(維新)を落選させる選挙だった。その意味で、安倍政権の代理人である舛添氏はもうそれだけで都知事にはふさわしくないように思う。彼自身の個人的資質や私生活上のスキャンダルはさておくとしても、ファッショ政治をほしいままにしている自公政権の支援を全面的に受けるのだから、彼自身が何と言おうとその枠から離れられないことは確実だ。ロシアのプーチン政権のようにオリンピックの「テロ対策」を口実にして治安対策を強化し、東京を「世界一安全な都市」に仕立てることなど、彼にとってはほんの朝飯前のことではないか。

 1971年東京都知事選のメインスローガンは「ストップ・ザ・サトウ」だった。美濃部陣営はベトナム戦争反対などの国政問題を真正面から取り上げ、佐藤首相と全面的に対立した(警察官僚出身の自民党都知事候補などには目にもくれなかった)。今回の都知事選挙でも宇都宮陣営や細川陣営は、脱原発にとどまらず名護市長選のように「ストップ・ザ・アベ」を掲げて全面的に戦ってほしい。(つづく)