安倍内閣の集団的自衛権の閣議決定を目前にしながら、なぜ公明党は連立政権から離脱しないのか、護憲勢力は創価学会への働きかけを強め、マスメディアは公明党の政治姿勢を批判すべきだ、維新と野党再編の行方をめぐって(その18)

 6月10日の朝日・毎日両紙は、安倍首相が集団的自衛権の「限定行使」について6月20日に閣議決定を強行する可能性を伝えた。由々しき事態だといわなければならない。だが世論は安倍政権の改憲強行路線は批判しても、その追随者である公明党はいっこうに批判しない。それどころか公明党の「踏ん張り」や「良識」に期待をかけ、自公協議の進捗状況に一喜一憂するという“待ちの姿勢”に陥っている。

 公明党は山口代表や北側副代表らが「自公連立政権からの離脱はない」と再三再四言明しているように、あくまでも自民党に追随する姿勢には変わりない。しかし公明党自民党政権にしがみつく以上、最終的には安倍内閣の要求を呑む以外に道はないといえるのではないか。結局は集団的自衛権閣議決定を容認し、太田国交相安倍内閣の一員として署名に応じるということになるのだろう。世論がこんな簡単自明の結論に目をふさぎ、なぜ現在進行中の自公協議(だけ)に目を奪われるのか、私にはまったく理解できない。

 特定秘密保護法案の自公協議のときもそうだった。世論は反対一色に染まり、法案の危険性についてマスメディアが挙って反対の論陣を張った。にもかかわらず、結局は公明党の賛成で法案はあっさりと成立した。だが不思議なことに、主犯の自民党は批判されても共犯の公明党はいっこうに批判されない。そして今回の集団的自衛権に関する自公協議もまったく同じ道をたどっている。同じ道は同じ行先に通じているのだから、このままで行けば「いつか来た道」をそのまま辿ることになる。そして集団的自衛権は必ず閣議決定されるだろう。

 私たちは、公明党自公政権の解消に踏み切らない以上、世論がなんと言おうと自民党の「下駄の雪」になるほかはないという現実を直視しなければならない。この厳然たる政治的現実をみないで公明党に期待することは、まるで「森に魚を求める」ようなものだ。結論的に言えば、連立政権を解消しないことを前提とした自公協議は、国民の目を自公協議に釘付けし、改憲反対運動のエネルギーを茶の間に封じ込める茶番劇以外の何物でもないということだ。護憲勢力はなぜそのことに気付かないのか、マスメディアはなぜ公明党に政権離脱を迫らないのか、私にはわからないことばかりだ。

 多くの人たちが現状に強い危機感を持っていることはよく知っている。また、かってないほど有識者の多くが改憲反対運動に立ち上がっているし、憲法学者らによる「立憲デモクラシーの会」も活動している。しかし九条の会の小森事務局長(東大教授)が言うように、「閣議決定という独裁的な方法で解釈改憲されると、どれだけ活動しても民意が反映させられない」という草の根運動の限界に護憲運動がぶつかっていることも事実だ(朝日新聞、2014年月6月10日)。

 ならば、護憲勢力創価学会公明党に政権離脱を直接働きかけるべきではないのか。身内の集会や会合だけで議論していても仕方がないし、憲法学者が記者会見だけをしていても事態は動かない。目下の危機を打開するためには、世論やマスメディアが公明党に対する批判の封印を解かなければならない。公明党が政権離脱すれば、自民党内の反安倍勢力も動きやすくなるし、民主党内の改憲反対の動きも活発化するだろう。安倍内閣の暴走を止めるためには、この方法が最も有効なのだ。

 阿部首相も本当のところは、公明党の離脱(切り捨て)を望んでいるのではないか。6月5日の外遊先の記者会見では、みんなの党や維新に集団的自衛権行使に向けての協力を公然と呼びかけたことがそのことを示している。維新はかねてから石原氏が「公明切捨て」を自民党に呼びかけており、維新分裂にともなう記者会見でも集団的自衛権の議論に関連して、「(石原新党の結成が)自民党公明党が袂を分かつ切っ掛けになりたい」と発言している。橋下氏も同様に、「我々参院議席数で、安倍政権は過半数をとりうる。僕らの議席集団的自衛権が前に進みうるのであれば、政治家冥利に尽きる」と述べ、公明党を揺さぶっている(日経新聞、6月8日)。

 時機は熟しているというべきだろう。公明党が安倍政権から離脱すれば、安倍内閣支持率にも大きな変化があらわれるだろう。「自民1強体制」の政治構造にも少しは穴が開くというものだ。そして改憲・護憲を軸とする政党再編が一気に進み、新しい政局が開けて現在の閉塞状態からの脱却の展望も可能になるかもしれない。この1週間、護憲勢力創価学会公明党への働きかけを強め、学会首脳部との話し合いや学会本部前での集会など、これまでにない活動を展開してはどうか。(つづく)