グローバル企業の経営リストラ戦略・「選択と集中=地域切捨ての論理」を自治体に適用することはできない、大飯原発差止め訴訟福井地裁判決は「人格権=住み続ける権利」を憲法上の最高価値として「選択と集中」を否定した、日本創生会議の「人口急減社会=地方消滅論」を批判する(その5)

 「選択と集中」という言葉は、もともと地域開発(再生)や自治体行政上の概念ではなく、グローバル企業の経営戦略として生み出されたリストラ方策であることに注意しなければならない。アメリカの多国籍企業ゼネラル・エレクトリックのCEОジャック・ウェルチが国際資本競争を勝ち抜くための「世界生き残り戦略」として、利益の出る分野に投資を集中し、利益の出ない分野は容赦なく切り捨てるという血も涙もない「リストラ戦略」として編み出したのが、この「選択と集中」の方策なのだ。

ウェルチは自社の得意分野に投資を集中し、関連企業の合併と買収を通してグローバル企業化を大々的に推進する一方、不採算部門においては徹底的な整理解雇を行って撤退するという新自由主義的手法で、事業の再編成に伴う資源の再分配と業績向上を達成した。その結果、数知れない国内企業や地域産業が倒産と崩壊に追い込まれ、いまやその影響は世界中の企業(資本)活動に及んでいる。

だが、地域も国境も(涙も)ないグローバル企業などは異なり、日本の国土・自治体を「選択と集中」の対象にしようとすること自体が根本的に間違っている。国土と自治体は、憲法に保障された国民の生存権など基本的人権を実現するインフラ(土台)であって、その方策は憲法の言う「地方自治の本旨」に基づいたものでなければならない。国民は地域に定住することなくして基本的人権を実現することができない。日本国憲法は国民の「地域に定住する権利=住み続ける権利」を保障しているのであって、時の政府がそれを踏みにじることなど許されるはずもない。

繰り返すが、国土と自治体を維持するのが国家の使命であり、地域と地域社会を維持するのが自治体の使命であろう。そうである以上、その中から利益を期待できる特定地域を「選択」して資源と施策を「集中」し、それ以外の利益の出ない地域は「切り捨てる」ことなど絶対にあってはならないし、また国民がこのようなことを許すはずもない。「地方自治の本旨」すなわち「サステイナブル原則」は、地方自治体が存続する限り永久・普遍の原理であって、人口急減社会においても何ら変わることがない。

2014年5月、福井地裁において歴史的な「大飯原発3、4号機運転差止請求事件判決」が言い渡された。その主旨は、「個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことができない」というものである。

同時に福井地裁判決は、「経済活動の自由(憲法22条1項)は、憲法上は人格権の中核部分より劣位に置かれるべきもの」と明確に規定し、「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失である」と指摘した。ここでは、「資本の論理」で「生活の論理」を否定することがどれほどの過ちに導くかが明確に示されている。

福井地裁判決は、日本創生会議の増田提言に見られるような新自由主義的な「地域切り捨て」の論理すなわち「選択と集中」の方策に対して、「人格権としてのふるさと」の憲法理念を対置し、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活を守ることこそが国富であると宣言したのである。

福井地裁判決に照らしてみるとき、増田提言はいわば人口推計の名を借りた「ショック・ドクトリン政策」とも言うべきプロパガンダであることがわかる。若年女性人口の流出は収まらないと仮定して「地方都市は消滅する」、「地方の町は救えない」ことを過大に強調し、そんな地域に税金を投入するのは無駄であり「地方中枢拠点都市」に都市機能を集約するのが効率的だとする方向に国民世論を誘導しようとする意図が明白だ。

だが、このような「選択と集中」(ウェルチ)すなわちグローバル企業の論理によって国土と地域社会を維持することは出来ない。憲法の言う「公共の福祉」を掲げる地方自治体の存在こそがその担い手なのであり、国土と地域社会の最後の守り手なのである。(つづく)