大阪を「経済空間」としか見ない「政治・行政学者」たちの奇妙な論理、「脱政治」的論評は橋下政治の悪行を脱色して忘却させる、大阪都構想住民投票の意義と課題について(6)、橋下維新の策略と手法を考える(その34)

 各紙の論壇やオピニオン欄を読んでいつも思うことは、政治を論じなければならない政治学者(行政学者)が真正面から政治を論じないことだ。私自身が政治学者ではないので余計にそう思うのかもしれないが、政治を研究対象にするのであればもう少し真面目に政治を論じてほしい。その絵に描いたような典型が、毎日新聞のオピニオン欄「都構想 住民投票を終えて」(5月29日)の砂原氏(阪大準教授、行政学)の論評だろう。

 砂原氏の都構想住民投票に関する論評は、関西財界と同じく大阪を「経済空間」としか見ない「脱政治」的行政学の視点で徹頭徹尾貫かれている。砂原氏の主張は、政治学の一分野としての行政学の立場からではなく、経営学の領域に属する「行政運営」「行政マネイジメント」「地域マネイジメント」の視点からのものだと言ってよい。橋下政治に関する一切の問題現象を捨象し、「大阪都構想」をもっぱら経済空間効率化(活性化)のための積極的提案として評価するところに、彼の論壇子としての政治的役割が如実にあらわれている。

砂原氏はもともと、橋下大阪市長の「『大阪都構想』の当初の狙いは、大阪市と周辺市を統合して再編し、周辺部と負担を共有しながら集権的に中心部への重点投資を可能にする」ということに強い共感を示してきた。その基本認識は、「中心部の活性化には、どこからかお金を持ってくるしかない」、「活力を取り戻すことを目指して『集権』を図ることと、効率的な住民サービスを行うための『分権』を両立させることは難しい」、「大阪維新の会も反対した党も、『どちらもやります』と言っていたのでは議論にならない」というものである。つまり大阪市と周辺市を合併して「集権体制=大阪都構想」を確立し、住民サービスを削減して浮いた財源を大阪の中心部に重点投資すべきだというのが砂原氏の本音であり、これは関西財界の利益を代弁する主張だといってよい。

だから砂原氏は今回の住民投票の結果を受けて、都構想が否決された原因を地方自治・住民自治を蹂躙(じゅうりん)した橋下政治の悪行(独裁性)に求めるのではなく、「大阪という都市のあり方」に関する各政党の政策能力の欠如に求める(摺りかえる)ことになる。そして「今回の住民投票では、都構想の細かな制度案、つまり『手段』ばかりが語られ、その手段を用いてどういう大阪にしたいのか、という『目的』が語られなかった」と総括するのである。これは橋下氏にとっては大変都合のいいご意見であり、悪いのは橋下市長ではなく「大阪をどうするか」を語らなかった各政党にあるということになる。まさに「橋下徹大阪市長が政治家生命をかけて挑んだ闘い」(オピニオン欄、リード部分)の美談を彩るにふさわしいコメントではないか。

一方、毎金曜日に「関西政治ウォッチ」のコラムを書いている待鳥氏(京大教授、比較政治学)の論評はどうか。こちらの方は橋下市長の「至らぬ点」や「行きすぎた言動」を多少はたしなめてはいるものの、反対派の姿勢も「ほめられたものではない」というのだから、結局は「どっちもどっち論」だ。一見、中立的な立場で対決する両者の論点や争点を論評するように見せかけながら、その実は本質を曖昧にするという「学識経験者」の役割を存分に発揮して、「橋下敗北」の印象を弱めているわけである。

しかし基本的な認識は、「大規模な住民投票まで行いながら、政策論としては十分に深まらない印象が残った。大阪を中心とする関西圏は、とくに社会と経済の活気という点で長期低落傾向にある。そこで多くの人は、自治体の持つ財源や人材を活用し、活気を取り戻そうという発想抱いてきた。都構想はその具体的な方法の一つという面を持っていた。大阪の場合、経済圏や生活圏に比べて大阪市が狭すぎ、そのことが的確な活性化策を妨げてきたのではないか、と言う問題提起は、完全に否定されるべきではないだろう」というものだから、砂原氏と大同小異の論調だといってよい。

今後に予想されることは、おそらく上記2人のような論調がマスメディア空間を席巻していくものと思われる。このような事態に対処するには、前にも述べたように「橋下政治を総浚えするシンポジウム」を開催し、「橋下政治黒書」を編纂して市民的総括を行うことだ。その時には勿論のこと、上記2人のような各紙論壇子を招いての公開討論が有効かと思われる。各紙の購読者である市民が開催するシンポジウムに、各紙から原稿料をもらっている論壇子が参加しないわけにはいかないだろう。学者としての矜持を持って堂々と市民との論戦に臨んでほしい。それでこそ「国民の税金」で飯を食っている国立大学の使命が全うされるというものだろう。(つづく)