東国原宮崎県知事は即刻辞任すべきだ、(麻生辞任解散劇、その20)

 東国原宮崎県知事が自民党から総選挙に出馬することを断念したという。というよりは、自民党内部はもとより、国民世論から「総スカン」を食らって出られなくなったというのが本当のところだろう。やはり、「柳の下に2匹目のドジョウ」はいなかったのだ。

 本人はそれでも「地方分権のために貢献した」などと強がりをいっているらしいが、それにしてもこの醜態ぶりはどうだ。もともと見るに堪えるような人物ではなかったが、落ちぶれてみると一層その感を強くする。「賞味期限切れ」いや「消費期限切れ」になった現在では、東国原氏は一刻も早く「店頭から消え去るべき存在」となったのである。

 この出馬騒動で一番迷惑を被ったのは宮崎県民だろう。自分たちの選んだ知事が仕事を放り出して、ほとんど地元にはいない。それどころか連日連夜東京で出没を繰り返して「訳のわからないこと」を言っているのだから、これではまともに県政を執行できるはずがない。「地方のために」と言いながら、その実は「地方を踏みつけ」にして、自分の出世欲のために右往左往しているだけのお笑い話なのだ。

 こんな無責任きわまる人物を宮崎県民がいつまでも許しておくはずがないし、また許しておいては駄目だ。東国原氏は即刻知事を辞任すべきだし、もし本人が辞任しなければ、主権者として著しく名誉を傷つけられた宮崎県民は、リコール運動を起こすべきなのだ。そうでなければ、日本の地方自治は死んだも同様になる。宮崎県民は自分たちの名誉にかけて声を上げ、行動を起こしてほしい。

 それにしても、この一連の騒動が意味するところは深刻だ。結論的にいえば、日本の国政がもはや「お笑い芸人」のレベルにまで堕していることを白日の下にさらしたからである。東国原氏に声をかけた古賀自民党選対委員長は「浅はかな知恵」だったと言わざるを得なかったが、問題は「浅はか」の域をはるかに超えている。ことの本質は、声をかけた古賀氏も、それに乗った東国原氏も「国民を侮辱」したのである。

 まず古賀氏の側からいえば、テレビの人気者を候補者に担げば大量の得票を稼げるという思惑があったことは間違いない。だが、これは自民党の常套手段で、今に始まったことではないのである。古い話では「NHK日曜のど自慢」の人気アナウンサー宮田氏を担ぎ出したときもそうだった。それからオリンピックで活躍したスポーツ選手もその都度利用してきた。でも彼らがその後国会で質問したとか、プロの政治家として活躍したといった話はついぞ聞いたことがない。

 要するに、政治家としての資質や見識などはどうでもよくて、その時その時の人気のある人物を「集票道具」(別の名でいえば、「人寄せパンダ」)として利用し、後は「飼い殺し」か「使い捨て」にすることで自民党票の目減りを補ってきただけの話なのだ。心ある人ならこんな話には滅多に乗らないから、話に乗るのは「ある種のタイプ」の人間に限られる。その頂点に立ったのが今回の東国原氏だというわけだ。

 彼に話を移そう。彼の脳裏にはもともと「地方」というキーワードはなかったはずだ。テレビのお笑い芸人としては、「地方」では売れないことは嫌というほど分かっている。東京からの全国ネットに登場しなければ、ギャラも上がらないし、名前も売れない。だから宮崎県に行ったのは、ふたたび東京に帰ってくるための「途中下車」程度に過ぎなかったという感覚だろう。

 しかし、さすがに1期も務めていない知事の座を放り出すことには理屈が要る。そこで思い付いたのが「地方分権」というキャッチコピーだ。「地方をよくするためには国政を変えなければならない」、「地方分権を実現するためには国政に出る必要がある」というのがその言い分だ。額面通りに受け取ればそういう面もないことはないが、問題は「誰がそのことを言っているのか」ということだろう。「マンゴーと地鶏の宣伝マン」だけの実績では、それを額面通りに受け取る人はまずいないからだ。

 そこで彼が一計を案じたのは、「自民党総裁候補」を要求したことだった。さすがにこの一計は、「彼以外には絶対に思いつかいない奇策」であっただけに、自民党も国民も度肝を抜かれた。宮崎県民もさぞかし仰天したことだろう。だが私は、「彼以外には誰も思いつかない奇策」を彼自身が堂々と口にしたことに衝撃を受けた。国民も宮崎県民も自民党と東国原氏に「侮辱されている」と心底から感じたのである。

 同様のタイプの橋下大阪府知事などは、今回の騒動を「地方分権を注目の的」にしたという理由で東国原氏を盛んに持ち上げている。だが彼らのいう「地方分権」は「道州制導入」のことであって、地方自治を否定し、地方分権と逆行する方向を、こともあろうに「地方分権」と言ってるにすぎない。それをマスメディアが何の検証も批判もなく垂れ流しているのだから、これほどの「偽装報道」はないのではないか。(続く)