気まぐれ台風か、地殻変動か、投票日直前にして考える、(麻生辞任解散劇、その26)

 この1週間余り、今回の総選挙をどのような角度から視るかで迷いに迷ってきた。新聞の各種の世論調査から受ける「民主党の圧勝」、そして「政権交代」といった劇的な政変予想に比べて、自分の気持ちや周辺の空気との余りの落差に戸惑いを隠せなかったからだ。もちろんそれは、選挙の最前線にいない者の評論家的な見方にすぎないとの解釈も成り立つが、やはりそれだけでは釈然としないものを感じるからである。

 ここ数日の選挙予想記事の論調は、民主党圧勝予想の「揺り戻し」はもはやないというものだ。選挙報道の常として、ある時点では「実態」を正確に写していたとしても、その報道自体のもたらす「アナウンス効果」によって、その後の勝敗に大きな影響を与えるということがある。劣勢と報道された側が奮起して予想外の勝利を手中に収めるとか、優勢と伝えられた側がますます勢いを増して圧勝するとかの類である。

 今回の場合は、政党支持率の推移からみても内閣支持率の変動から見ても自民党の劣勢は覆いがたい。また民主党との支持率の格差も広がりこそすれ縮じまってはいない。つまり、投票直前になっての大異変は起こらないということだ。

 このような選挙情勢を前にして、いまいろんな観測が乱れ飛んでいる。そのひとつが、前回の小泉郵政選挙の「劇場型選挙」から、今回の「マニフェスト型選挙」への変化がこのような傾向を生み出しているというものだ。そういえば、テレビ番組でも各党の政策担当者の間のマニフェスト討論が盛んだし、各紙の解説記事も前回に比べれば比較にならないぐらい丁寧にフォローしている。だが問題は、テレビの場合は視聴率がいっこうに上がらないし、新聞の場合は読者の話題にも上らないということだ。

 このことは、今回の選挙戦をめぐる国民多数の「大衆的気分」の特徴をよくあらわしている。要するに、有権者の大多数はマニフェストの一字一句を比較して投票するのではなしに、自らの生活感覚を下敷きにして「それに合う主張」や「政治スローガン」を取捨選択して判断しているということだろう。だから、各党の政策や行動を構造的に比較検討するのではなく、目の前にいる候補者や選挙運動員の個々の表情や訴え方をみて判断する。若い候補者が自転車作戦を重視するのもそのためだ。

 その意味では、今回の選挙も前回の小泉選挙も比較的よく似た選挙だと思う。前回の小泉郵政選挙では、国民は「郵政民営化」を政策基準にして自民党に投票したのではなく、「自民党をぶっ壊す」と叫んだ小泉首相の言動(パフォーマンス)に投票したのである。派遣労働が全面解禁になって雇用不安定化が激化し、社会保障財源が大幅カットされて行く最中での選挙でありながら、その張本人である小泉首相に投票した理由は何か。それは「小泉ならこの苦境を打開してくれるかもしれない」と思ったからである。

 小泉首相からすれば、「してやったり!」というところだった。大量の小泉チルドレンを刺客に祭り上げて総動員した「選挙ショー」は見事だった。選挙後の彼の得意満面そのものの表情がそれを物語っている。だが長期的に見れば、小泉首相は疑いもなく「国民をだました」ことで自民党の「息の根」を本当に止めたのである。ポスト小泉の安倍、福田、麻生の3人の世襲首相は、その政治資質の劣化もさることながら、「自民党のだまし」を払拭する意思も能力もなく、ただそのコピーを繰り返しただけだった。いわば彼らは、なぜ自民党が長年にわたって政権を維持することができたかという「政党政治の原点」を忘れてしまったがゆえに、国民の信頼を失ったのである。

 「大衆は小さなウソには気付くが、大きなウソにはだまされやすい」といった言葉がある。だがどんな巧妙なウソでも、永久に大衆をだまし続けることはできない。現に「小泉の言ったことはすべてウソだった」という民主党の攻撃を、自民党公明党は反撃することができない。それは、もはや「マニフェスト云々」といったレベルのことではないからだ。

 「政権公約」という名のマニフェストは、政党政治に対する信頼性を基礎にして成り立っている。いかにそれが精緻な作文であっても、「だましのテクニック」であればマニフェストは機能しない。今回の総選挙での民主党ブームは、民主党マニフェストによる効果でもなければ、民主党の政策に対する期待によるものでもない。それは、「小泉にだまされた」、「自民党にだまされた」ことへの国民の政治不信の激しい裏返し感情の表出にほかならない。

 くわえて、この傾向に一段と拍車をかけているのが小選挙区選挙制度だ。政党がマニフェストを掲げて選挙を戦い、有権者はそれを判断基準にして政党に投票する比例代表制であれば、国民は候補者の「だましのテクニック」に引っかかることは少ない。だが、1選挙区で1票でも多くの票を獲得した候補者が当選する仕組みの小選挙区制は、「政策よりも当選本位」になりやすい。「小泉と自民党にだまされた恨み」を民主党への投票行動でリベンジするという空気が色濃く選挙戦を覆っているのはそのためだ。

 全国各地で自民党公明党の大物幹部の苦戦が報じられている。大物候補に若手民主党候補(それも女性候補を中心に)ぶつける「逆刺客作戦」といわれる小沢副代表の選挙戦術が功を奏しているのだという。これなど、まさに小泉選挙と瓜二つの構造そのものだ。そして激しい自民党への国民の怒りが民主党ブームとなって渦巻いているのである。自民党公明党の候補者が激しい逆風にさらされているのはそのためだ。

 各紙のなかには、このような民主党ブームを「政治の地殻変動」と評しているものもある。だが私はそうは思わない。「自民党にだまされた」有権者の怒りが、次は政権交代後の民主党政権に向かわないとは誰も保証できないからだ。前回は「苦境の打開」を小泉政権に託した国民は、今回は明らかに民主党にその解決を求めている。本当に民主党にその意思と能力があるのであれば、政権は維持できるかもしれないが、自民党と大同小異の政策で事態を乗り切ろうなどと考えているのであれば、その時の反動はより大きなエネルギーで襲いかかってくる可能性をなしとしない。

 日本の政治の地殻変動は、「ポスト民主党政権」になってはじめて本格化するのであろう。それまで国民にとっては、「気まぐれ台風」の嵐に翻弄される日々が続くのかもしれない。でもこの嵐を乗り切ることなしには、安全な海原に出ることができないことも確かである。いずれにしても、今回の総選挙が歴史的な転換点の前兆であることは変わりない。一刻も早く、そして徹底的に自公政権の息の根を止めたいものである。