「人の予算」をぶった切ったお雇い仕分け人によるコストカット劇場、(閑話休題、その1)

 この間の政治舞台は、もっぱら「事業仕分け」をめぐって回った。その結果、鳩山内閣の仕事ぶりに対する評価は、「行政の無駄遣い削減への取り組み」への評価がこの1カ月で10%も上がって70%に達した。なかでも「事業仕分け」に対する評価は75%という圧倒的な数字だ(日経11月30日)。行政刷新会議の「仕分け人」ならぬ「仕掛け人」たちは、さぞかし「してやったり!」とほくそ笑んでいることだろう。

 だがその一方で、教育・保育関係者や医療従事者、大学・研究機関やスポーツ選手などが予算削減に対して強い抗議の声をあげた。いずれも「無駄遣い」だと宣告されて予算を大幅に削られた(あるいはゼロ査定された)分野の人たちだ。これまでは、土木建設業界の団体が予算獲得のために決起集会を開いて、族議員や関係省庁の官僚たちに圧力をかけることが慣例になっていたが、今回は「カットされた側」が立ちあがった。異例のことだ。

 鳩山内閣の予算基本方針は、「コンクリートから人へ」というものだ。これは、かってイギリスの労働党政権が住宅政策の重点を公共住宅建設から家賃補助へ転換するときに使われた「石から人へ」あるいは「レンガから人へ」のスローガンをもじったものだろう。

 国民に「住む権利」を保障するためには、「住宅というハコモノ」と「家賃補助という人サービス」の両方が必要だ。またハコモノにも「必要なハコモノ」と「無駄なハコモノ」があって、「ハコモノ政治」が一概に悪いというわけではない。ところが日本で「ハコモノ政治」というと、自民党土建政治を象徴するキーワードになっている。だから、「コンクリートから人へ」というスローガンが歓迎されるわけだ。

 前講釈はこれぐらいにして、今回の事業仕分けに移ろう。細部のことは関係者しかわからないので論評できないが、鳩山内閣の「コンクリートから人へ」という基本方針に照らしてどうだったのか程度は言える。結論は「人の予算」を容赦なく切ったということだ。

 先にあげた教育・保育・医療、大学・研究・スポーツなどは、いずれもが「人」が中心になる分野だ。ここでは「人そのもの」に対する充実した施策と、その人たちの活動を支える「ハコモノ」の整備が密接不可分に結びついている。だから「人」の活動をどう発展させるかという方針がまずあって、それを支える「ハコモノ」の必要性が判断されるという順序になる。

 ところがどうだろう。「無駄を省く」ことを至上課題とする「お雇い仕分け人」たちの目は、「人そのもの」を飛び越えて「ハコモノ」に集中した。理由は簡単だ。彼らには「人そのもの」あるいは「人の活動」の「費用対効果」(コスト・ベネフィット・アナリシス)を判断する視点や能力がないからだ。

 これまでの自民党政権の土建事業であれば、費用対効果の比較は簡単だった。単純に言えば道路建設費と交通量の関係を調べればよかったのである。だが、スーパーコンピューターの開発費用(コスト)に対する効果(ベネフィット)は一体何によって測定するのか。ノーベル賞フィールズ賞の受賞者数によって判断するのか、それとも膨大な分野にわたる自然科学研究の全体の底上げや発展によって判断するのか。

 スポーツ予算についても同様だ。オリンピックの金メダルの数で費用対効果を測るのか、それとも国民全体の体力向上やスポーツへの参加機会の向上を通して判断するのか。でもノーベル賞やオリンピックの金メダルは、国民全体の「人の活動」を支えることによってしか実現できない。氷山の大部分は水面下に隠れているのである。

 今回の事業仕分けは、大学関係者の間では極めて評判が悪い。つい最近の会議でも、「鳩山は小泉よりもひどい。民主党自民党以上に新自由主義政党だ」という会話が飛び交った。これは世間の事情には疎い大学関係者の単なる「ボヤキ」ではない。ことは「コンクリートから人へ」の鳩山政権の基本理念に関わる問題なのである。

 このような国家運営の基本にかかわる予算査定のまえさばきを、こともあろうに小泉構造改革を推進してきた「お雇い仕分け人」に丸投げするようでは、「政治主導」の看板を下ろさなければならないだろうし、また事業仕分けに参加した民主党議員たちも「お雇い仕分け人」と同様のレベルであるとすれば、小泉構造改革を否定して政権交代をした意味が国民から問われることになる。(続く)