JR西日本福知山線の脱線事故から5年、遺族・浅野弥三一氏の願い、(閑話休題、その1)

 「閑話休題」というには、JR福知山線脱線事故は余りにも重すぎるテーマである。でも長年の友人であり、犠牲者の遺族である浅野弥三一氏から小冊子が届けられ、そのなかに氏の特別寄稿、「JR西日本の安全再構築の願い」が掲載されているとあれば、何をさておいても書かないわけにはいかない。

 2005年4月25日午前9時18分、塚口駅を過ぎたあたりの急カーブで、制限速度をはるかに超えた宝塚駅発の快速電車が脱線転覆し、線路脇のマンションに激突した。列車事故としては、死亡者107人、重軽傷者562人に達するという空前の大事故である。浅野氏の妻・陽子さんは、この日の朝、留学先のカナダの大学から一時帰国していた次女と連れ立ち、「行ってきまーす」といって元気に大阪に買物に出かけたという。日ごろから仲のよい氏の妹も一緒だった。だが、最も犠牲者の多かった2両目に乗車していた妻と妹は帰らぬ人となり、次女も九死に一生を得たものの深い重傷を負った。

 氏の寄稿文には、家族の土台となりかすがいであった妻を失ったことへの気持ちは抑制的にしか書かれていない。しかしその短い文章の見出しが「妻の生きていた尊厳と家族の崩壊」であることからも、彼が事故後どれほどの深い喪失感に襲われ、苦しんできたかは察するに余りある。いまは老犬とともに独り暮らしをしている氏の日々の生活に、たとえ一刻でも安らぎの時間が訪れることをただ祈るのみである。

 とはいえ氏の手記の本意は、「JR西日本の安全再構築の願い」というタイトルが示すように、このような大事故を二度と起こさないための安全体制を社会的に再構築することにある。それは、文中の「事故の社会化―遺族の思いを束ねて真っ直ぐに」、「JR西日本幹部の稚拙な対応」、「事故に向き合わないJR西日本」、「井手氏と経営幹部」、「事故調査委員会の意見聴取会」、「遺族と向き合うことの重要さ―3本の柱」、「不条理に向き合う遺族―その社会的責務と真相解明への思い」という小見出しを綴ってみてもよくわかる。

 事故発生から約2ヶ月後、遺族と負傷者・家族が集まる「4.25ネットワーク」が組織の枠やルールなどを一切定めずに発足し、氏がそのなかの一人として今日に至るまで休むことなく活動してきた。当初は、犠牲者や被害者が苦悩を語り合い、交流を通して被害者同士が痛手を負った気持ちを共有することに意味があったというが、そのうちに被害者としての思いを素直にJR西日本に提示することでその場がさらなる被害の拡大防止の場になり、遺族の思いや動きを社会に発信していくことが何よりも大事だと考えるようになったという。

 犠牲者の遺族や被害者に対して、可能な限りの補償や支援が必要なことはいうまでもない。一家の大黒柱を事故で失うことによって遺族の家庭が崩壊し、一家が離散することも珍しくはないからである。また幸い一命は取り留めたものの、社会復帰のための支援策が十分でないために、被害者が自殺に追い込まれた例すらある。「4・25ネットワーク」が被害者救済のための共助組織であり、被害者が互いの気持ちをひとつにする場であったことは、2次被害、3次被害を防ぐためにも何よりも必要なことであった。

 だが浅野氏の果たしてきた役割は、決してそれだけにとどまるものではない。それは、氏がこれまで数多くの被災地の調査活動と復興支援にかかわり、被災者の暮らしとまちづくりのために奮闘してきた専門家であったことと深く関係している。氏は、1982年の長崎豪雨災害、1991年の雲仙普賢岳噴火災害、そして1995年の阪神淡路大震災と立て続けに発生した大災害の被害調査と復興対策に取り組み、つねに被災現場に立脚した専門家としての役割を果たしてきたからである。そしてその体験が、自らが遺族となった今回の鉄道事故においても冷静な専門家としての眼を失わせることのなく、今日までその活動を支えてきた原動力となったのであろう。

 氏の活動の目的は、JR西日本をして「個別補償」にもとづく拙速な事後処理を許さず、あくまでも事故原因の究明と安全対策の構築に置かれていた。だからこそ「4.25ネットワーク」との話し合いを公開の場で求め、事故の原因究明や事故防止のための抜本対策を要求し続けてきたのである。でも妻と妹を失い、しかも重傷を負った娘を抱えての日々の活動はいかばかり苦しく、かつ耐えがたいものであったであろうか。当初、JR西日本の幹部は「4.25ネットワーク」との話し合いに応じず、出席を渋ったというが、それでも公の席上で事故の原因究明や抜本的な事故防止策を求める氏のエネルギーは枯渇することがなかったのである。

 状況が一変したのは、政府の事故調査委員会報告をめぐるJR西日本の情報収集工作が発覚してからのことである。複数の幹部たちが報告書の事前入手はもとより公述人の後述内容の変更を求め、最終報告の修正を働きかけていたことが明らかになった。そしてその背景に、「井手天皇」といわれるJR西日本の元最高幹部の存在があった。(つづく)