辻元議員の社民党離党をどうみるか、(民主党連立政権の行方、その15)

 辻元清美衆院議員が7月27日予定通り社民党を離党した。記者会見では「一睡もできなかった!」などとしおらしいことを言っていちおう悩んだふりをして見せたが、何から何まで計算づくの行動であることは誰もが疑わない。その証拠には、参院選では社民党候補ではなく、民主党候補の応援演説で駆けずり回っていたのだから、すでに民主党との手打ちも終わっているはずだ。当分は「無所属」という名の一定の冷却期間を置いてから、いずれは民主党への「与党入り」を果たすのだろう。

 それにしても今回の辻元議員の社民党離党劇は、いみじくも「革新政党」とされてきた社民党の風化(劣化)を象徴する「寸劇」だった。社民党結成当時の議席数は衆院15、参院38というもので、社会党時代とは比較すべくもないが、それでも現在に較べればまだしも政党の体をなしていた。それが衆院7、参院4の「ミニ政党」にまで落ちぶれ、おまけに「次期党首候補」とも目される辻元議員が離党したのだから、「看板失い、社民「危機的」」(朝日)と書かれても仕方がない。

 辻元氏は、学生時代にNGО「ピースボート」を立ち上げ、国際的な平和運動に取り組んできた市民活動家だ(だった)。その持ち前の関西弁と行動力を社民党党首の土井たか子氏に見込まれ、1996年衆院比例近畿区で初当選して以来、「野党らしい市民派議員」のイメージを売り物にしてきた人物だ。

 しかしその政治経歴は、秘書給与詐欺事件でいったんは辞職し、詐欺罪での有罪判決(執行猶予付き)が確定したものの、再び2005年衆院比例近畿区で返り咲き、民主・社民・国民新党の3党連立政権では国土交通副大臣に就任するといった、したたかでかつ波乱に富んだものだ。有罪判決を受けた一介の野党議員から与党政権の(準)閣僚への変身など、並みの政治家ではできることではない。

 辻元議員にとって国交省副大臣のイスは、よほど居心地がよかったとみえる。自民党顔負けの右派政治家・前原大臣と気脈を通じて仕事に精を出し、そこではじめて自分が「与党体質」であることを発見したというのだから、政策を実現できる「権力のうまみ」を実感したにちがいない。だから社民党が連立政権から離脱したときには、「なぜ自分が辞めなければならないのか」と最大限の抵抗をこころみたのである。

 だがよく考えてみれば、国民新党ならまだしも社民党民主党と連立政権を組む必然性などどこにもなかった。憲法9条問題にしても、米軍軍事基地問題にしても、公務員削減問題にしても、国会議員定数削減問題にしても、民主党社民党の政策には「天と地」ほどの違いがあったのであり、連立政権を組むことなど到底考えられなかった。

 それがとにもかくも3党連立政権になったのは、社民・国民新の「両ミニ政党」が、小沢幹事長が国会運営を仕切るうえで「数合わせ要員」として必要になったからに他ならない。そして連立与党が参院過半数衆院の3分の2を制することと引き換えに、両ミニ政党には何がしの「おこぼれ」が与えられた。辻元議員に国交省副大臣のポストが回ってきたのは、その「おこぼれのカケラ」であることを彼女自身がだれよりもよく知っているはずだ。

 だが、昨日の辻元議員の社民党離党表明会見の記事を読んで心底驚いた。「国土交通副大臣を経験し、現実との格闘から逃げずに仕事を進めたい思いが強くなった。社民党の枠を超えて出発したい。憲法9条を守り、弱い立場の人たちの政治を目指すことは変わらない。普天間基地問題の解決のため、これからも頑張っていきたい」というのである。

 無所属議員が国会では「泡沫」にすぎないことはよくわかっている。だから、辻元議員は遠からず民主党に入ることは99%確実だろう。だがそのときに、辻元議員は果たして「憲法9条を守り、弱い立場の人たちの政治を目指し、普天間基地問題の解決のために頑張れる」のか。改憲を掲げ、普天間基地辺野古移設を強行し、派遣労働を野放しにし、年金を生存レベル以下に放置し、消費税増税を画策し、おまけに衆参比例定数削減を強行しようとする民主党政権のなかで、いったい「何を頑張る」のか。

 社民党はもとより共産党を含めて、日本の革新政党は衰退の一途をたどっている。これだけ国民の生活を踏みつけた酷い政治が行われているのに、その批判の受け皿が革新政党には向かわず、みんなの党のような「第3極」に誘導され、やがては「民自大連立」の流れに合流させられようとしている。

 今回の辻元議員の社民党離党劇がはたして「寸劇」に終わるのか、それとも辻元議員と同様、民主党選挙協力を受けている社民党員や社民党地方組織の離党騒ぎに発展するのか、はたまた社民党内の連立維持派と離脱派の本格的対立に拡大するのか、事態はまさに流動的である。ひょっとすると、辻元議員の社民党離党はその「導火線に火を付けた」のかもしれないのである。