閑話休題、(近くて遠い国、北朝鮮への訪問、その1)

 2010年は、韓国併合条約が発効してから100年を迎える歴史的な年だ。菅政権は、過去の植民地支配への反省を含めた首相談話を8月10日閣議決定し、そのなかで朝鮮総督府時代に宮内庁へ「移管」した「朝鮮王朝儀軌」を韓国政府に「引き渡す」ことを明らかにした。韓国に対する補償、賠償問題との関係を避けたとはいえ、戦前からの負の遺産がこのような形で少しずつでも解決に向かうことは大いに歓迎すべきことだ。

その一方、北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)とは拉致被害者問題をはじめとして極度の緊張関係にあり、日朝協議は2008年以降途絶えたままだ。あれ以来、北朝鮮に対しては全面的な経済制裁はもとより、外務省が渡航禁止区域に指定するなど、政府レベルでも国民レベルでも日朝両国の交流は最悪の状態にある。7月20日から4日間にわたって訪日した金賢姫工作員からも新しい情報はなく、拉致問題の解決は非公式ルートを含めて北朝鮮との対話のパイプを構築する以外にないことが明らかになった(日経8月2日)。

こんな時期にことさら韓国併合100年を意識したわけではないが、旧知のジャーナリストや法曹家たち数人の間で、一度北朝鮮へ訪問旅行をしようという話が持ち上がった。しかし大手の旅行社は渡航手続きを自粛しているので、個人旅行専門の小さな旅行社に依頼してビザを申請したところ何とか許可が得られ、結局、国際問題に詳しいメディアアナリストと私の2人が行くことが決まった。(当初参加希望の何人かは仕事の都合で断念した)

私たちがこの時期に北朝鮮へどうしても行きたいと思ったのには、2つの理由がある。ひとつは国際関係からの理由で、日本・中国・韓国・アメリカ間の今後の軍事・外交関係の行方を占ううえで、いずれにしても北朝鮮の動向がカギになると予想されること。もうひとつは北朝鮮の体制に対する関心からで、たとえ限られた地域と時間であっても、金正日国防委員会委員長(以下、敬称略)の率いる体制が、後継者問題も含めて今後どのように推移するかを肌で感じてみたいこと。この2点だった。

くわえて私自身の個人的関心事といえば、私自身のルーツ(かもしれない)と考えている北朝鮮の土を一度は踏んでみたい気持ちがあった。私の故郷はヤマト王朝の所在地である明日香に近い奈良盆地にある。市町村合併以前の地名は奈良県北葛城郡百済村で、葛城と百済のいずれもが古代から朝鮮に深い関係を持つ地域である。

北葛城郡の地名は、大和の古代豪族・葛城氏に由来するもので、対朝鮮外交を一手に掌握していた葛城氏のもとには、鍛冶生産を始めとする様々な手工業に従事する多くの朝鮮渡来人集団が加わり、葛城地方に定住していた。渡来人の高い技術に支えられた葛城氏の実力は強大で、大王家と肩を並べるほどであり、古代史学者の直木孝次郎氏が説くように、5世紀のヤマト政権はまさに「大王と葛城氏の両頭政権」であったといえる。

また百済村は、7世紀の朝鮮半島の戦乱の後、滅亡した百済の王族が当時親交のあった大和王朝を頼って奈良地方に逃れたときに生まれた地域だといわれている。私の故郷には、重要文化財に指定されている百済寺の三重の塔がいまも往年の美しい姿をとどめている。この他、百済の地名は大阪の枚方市大阪市住吉区にも見られ、百済の一行が奈良地方から河内地方へと向かうなかで、次第にチリジリバラバラになっていく様子がうかがわれる。

結局、百済の王族らはその後さらに九州地方に流浪し、現在の宮崎県美郷町南郷区や木城町へそれぞれ移り住んだと云われている。美郷町南郷区には、百済の館をはじめ、王族の遺品とされる古銅鏡群や馬鈴馬鐸、王の墓とされる古墳などが残されている。またその近傍の高原町には広原地区(旧広原村)があり、JR九州吉都線宮崎駅都城駅を結ぶ路線)が通っており、「広原駅」(ひろわらえき)が今も健在である。

このように私の故郷の地名や氏名をたどっていくと、どうしても朝鮮からの渡来人や亡命してきた百済王族との関係に行き当たる。私の氏は漢族のものだとされるが、古代の大和地方には倭人や渡来人が入り混じって定住していたと思われ、私の遺伝子はこれら諸民族の日常的交流のなかから育まれたもので、そのことが北朝鮮への関心を一層強いものにしたに違いないのである。

ということで、私たちは8月2日から6日までの6日間、北朝鮮への旅に向かった。本来であれば、日本から北朝鮮の首都・ピョンヤンに行くには航空便を利用するのが最も手早い。関西空港から北京空港に飛び、そこでピョンヤン行きに乗り換えれば、実時間4〜5時間程度で行けるのである。でも私たちは北京空港までは飛行機を利用したが、そこからは北京中央駅までバスに乗り、落ち合った北朝鮮の旅行社からビザと鉄道切符を受け取って列車の旅に出た。北京駅からピョンヤン駅までの所要時間は驚くべきことになんと25時間、丸一昼夜を車内で過ごすことになった。

なぜ私たちがかくも列車の旅にこだわったのか。ひとつは、今年のある時期に金正日が同じ鉄道路線で北京や東北部各地まで往復したことから、私たちもその路線を選ぶことにしたのが第1の理由。もうひとつは、航空機では絶対に見られない沿線風景を自分達の眼で見たかったこと。とりわけ農村部の光景を間近で見たかったことが第2の理由である。こうして私たちの北朝鮮への旅は始まった(つづく)。