危機的状況にある北朝鮮の鉄道施設(2)、(近くて遠い国、北朝鮮への訪問、その4)

鉄道施設のなかでも、橋梁はきわめて重要な施設だ。とりわけ大河を渡る橋梁は、高度な建設技術と莫大な建設コストを要するだけでなく、いったん戦争になると最大の攻撃目標になるので、橋梁を攻撃から守ることが軍事作戦上の至上命令となる。1970年代初頭、パリでアメリカと北ヴェトナムとの間で和平協定が締結された直後、戦災復興支援のために私がヴェトナムへ行った時も、空港から首都ハノイに至る路線の橋梁は悉くアメリカ軍の北爆によって破壊されていて、鉄道の運行はもちろん不可能だった。ただ人や車の通行は、河川に多くの小舟を束にして係留し、その上に木材や鉄板を敷いて辛うじて確保されていた。

中朝国境を400キロメートル近くにわたって流れる鴨緑江は、アジアでも屈指の大河川であり、かつ軍事境界線としても格別の重要性を持った河川である。日露戦争時には日本軍とロシア軍の激戦場になったし(1904年)、朝鮮戦争時には中国軍が鴨緑江を越えて参戦し、アメリカ軍が鴨緑江周辺の交通要衝を爆撃した(1950年)。しかし鴨緑江は同時に、水力発電によるエネルギー基地として過去も現在も最重要の位置を占めている。1930年代後半から40年代初頭にかけて、日本帝国は鴨緑江中流域にアジア最大級のダムを建設し、その電力は石油資源のない北朝鮮にとって最大のエネルギー源となっている。

私たちが通った丹東・新義州両駅を結ぶ鴨緑江鉄橋(第二鉄橋)は、現在「中朝友誼橋」と呼ばれ、全長1キロメートル弱の鉄道(単線)・道路(1車線)の併用橋だ。この鉄橋は、中朝両国を結ぶ最重要路線にもかかわらず、鉄道は単線、車道は1車線という信じられない極限状況のままに置かれている。自動車通行は2時間ごとに中国側からと北朝鮮側からの交互の一方通行となり、列車が通過するときには車道は閉鎖されるので、1日の通過交通量は著しく制約される。この狭い車道を、貨物を満載した中国のトラックや出入国手続きの観光客(列車以外の)を乗せたタクシーがノロノロと走っていくのである。

鴨緑江第二鉄橋は、輸送量の増強に対処するため、最初の鉄橋と併用・複線化することを目的に日本帝国によって1943年に建設された。しかし朝鮮戦争中に第一鉄橋と第二鉄橋がともにアメリカ軍機の爆撃を受けて第一鉄橋の北朝鮮側の半分は完全に破壊され(橋脚部分は残っている)、現在は中国側から鴨緑江河流の中央部付近まで行ける「鴨緑江断橋」と言う名の歩道観光橋になっている。第二鉄橋はその後修復されて「鴨緑江大橋」と名を改められ、これが現在の中朝友誼橋となったのである。

私はそれほど多くの文献を読んでいるわけではないが、日本統治時代の植民地における鉄道政策に関する業績としては、『植民地鉄道と民衆生活−朝鮮・台湾・中国東北−』(高成鳳(コウ・ソンボン)著、法政大学出版局、1999年)が参考になる。それによると、日本帝国の鉄道政策の狙いは次のようなものであった。

「朝鮮の鉄道は、統治上の行政機関として極めて重大なる使命を有するのみならず、平時たると有事たるとを問わず大陸と内地を連絡する重要な交通幹線として常に最善の施設と準備を要する。由来、半島の地、海陸の天産に富むも交通機関の普及遅々たる為、未だ充分之が開発を見るに至らず、人文の向上又世運に伴はず、八百哩に亙る陸接国境を控え、満蒙無限の地域に接するも、国境地方交通機関不備なる為、常に不安の状態を免れず、之が警備に巨額の経費を要し、往々にして貴き犠牲者を見る状態に在り。之を開発し之を経済化し、文化の普及に依りて、辺境を不安の域より脱せしむるは、実に朝鮮統治の重大使命にして、併て朝鮮鉄道経営の方策と云わねばならぬ」。(朝鮮総督府鉄道局長、「朝鮮国有鉄道の経営について」、『朝鮮総攬』、1933年)

ここでは日本帝国による植民地鉄道経営の狙いが、朝鮮半島を軍事的に支配するための軍隊の移動や軍需品の輸送にとって必要不可欠であるばかりでなく、中国大陸や満州などへの輸送交通幹線としての役割を果たすためであることがよくわかる。また鉄道による地下資源発掘や工業開発など沿線開発を通して日本の経済圏を拡大し、植民地経営を経済的にも治安行政的にも円滑に進めることも大きな政策目的のひとつであった。

日本帝国は、日露戦争の軍備輸送のために釜山から京城(現在のソウル)までの京釜線444キロメートルを1901〜05年の4年間で、京城(ソウル)から新義州までの京義線500キロメートルを1904〜06年の僅か2年間という驚異的な短期間で開通させた。現地の朝鮮人労働者を酷使しての突貫工事によってである。そして1911年に最初の鴨緑江鉄橋が完成すると、京釜・京義線は満鉄の安奉線(安東と奉天を結ぶ路線、安東は現在の丹東、奉天は現在の瀋陽)に接続されることで、日本帝国の大陸進出(侵略)の大動脈となったのである。

さらに満州事変(1931年)を契機に、朝鮮と満州の連絡路を強化する必要から京釜・京義線の大幅なスピードアップが行われ、1933年には釜山―奉天瀋陽)間に直通急行列車が運行し、「ひかり」と命名された。この急行列車は、釜山―安東(丹東)間を従来の21時間を4時間短縮して17時間で走った。翌年にはさらにダイヤが改正され、釜山―新京(長春)間に直通急行列車「ひかり」が、釜山―奉天瀋陽)間に「のぞみ」がそれぞれ運行し、満鉄の「あじあ号」とともに朝鮮―満州の鉄道は高速化と大量輸送の時代に突入していった。併せて1935年には釜山―北京間にも直通急行列車「興亜」が運行し、その翌年には釜山―京城(ソウル)間を6時間45分で走る特別急行「あかつき」が運行した。

私はコウ・ソンボン氏の著書を読んで、日本の新幹線の「ひかり」と「のぞみ」という名前が公募で決まったとはいえ、戦前の朝鮮・満州間の直通急行列車と同じであることを知ってひどく驚いた。と同時に、現在の北朝鮮の列車運行が中国や韓国との比較はおろか、戦前の植民地鉄道にもはるかに劣る危機的状況にあることを改めて認識せざるを得なかった。

私たちの乗った国際列車は、新義州ピョンヤン間225キロメートルを6時間もかかった。表定速度は225キロ÷6時間=38キロメートル/時間である。これに対して釜山―ソウル間444キロメートルを戦前の特急「あかつき」は6時間45分、現在の韓国新幹線は2時間50分、同じく在来線急行は5時間30分前後で走る(走った)。表定速度は各々66キロメートル、169キロメートル、81キロメートル/時間である。もっとも金正日の特別列車は中国でもロシアでも時速40キロメートル程度で走るので、「偉大な指導者」はそれで満足しているのかもしれない。ただし、この特別列車の運行に合わせて通常の列車時刻表が大幅に変更されるので、両国の交通機関はこの時ばかりは麻痺寸前の混乱状態に陥るのが常だったという。(つづく)

今日2010年8月22日は、日本帝国が韓国(大韓帝国)を併合してからちょうど100年目に当たる。この日を契機に、私も含めて日本国民のひとりひとりが植民地時代の朝鮮半島の姿を振り返ってみるのも「未来志向」のためには意味のあることだと思う。それも韓国だけではなく北朝鮮も含めてのことである。そんな気持ちで今日は少し長めの日記を書いてみた。