2月27日の月曜日、私は大阪で昼夜連続2つの会議をハシゴすることになった。ひとつは昼間の都市計画関係学会の学術シンポジウム、もうひとつは「おおさか社会フォーラム」が主催した『公教育と公務員労組の解体と闘うウイスコンシンからの報告』に関する夜のプレフォーラムだ。夜のフォーラムは会場がすし詰めだったこともあって相当疲れたが、久し振りに組合運動や市民運動の熱気に触れることが出来て大いに刺激された。
フォーラムではアメリカから招請された2人の女性教師の運動報告が圧巻だった。ひとりはウイスコンシン州都・マディソン市の教員組合委員長のペギ―・コインさん、もう一人は同教員組合闘争委員会共同委員長でリコール運動ボランティアのカスリン・バーンズさんだ。2人とも意識的にゆっくりと話してくれたせいか、通訳が要らないほど報告がわかりやすく無駄がなかった。
それもそのはずだ。2人はともにウイスコンシン州立大学マディソン校の大学院(教育学)を出た現職教員で、ウォーカー州知事の公立教員攻撃や公務員組合潰しの反対運動の先頭に立ったアクティブな活動家であると同時に、長年の豊かな教育経験に裏打ちされたすぐれた知的リーダーだからだ。報告の概要は以下のようなものである。
ウォーカー州知事の「財政再建法案」提出(2011年2月11日提出)にともない、これに即座に反応したウイスコンシン大学の学生グループの行動(大学からマディソン校を分離する方針に反対)と教員組合の運動(公務員の健康保険・年金料負担増額および教員組合の団体交渉権剥奪に反対)から始まった少数者の運動は、法案提出から僅か10日足らずの間にこれを支援する高校生や市民へ爆発的に広がり、州庁舎・州議会を連日包囲・占拠する数万人規模の大運動へと発展した。
その後の経緯は日本でも伝えられたように、公務員組合の団交権を制限する法案が3月9日上院、10日下院で強行採決されたものの、いったん市民の間に広がった反対運動は衰えることなくその後も継続され、約半年後の11月15日からはウォーカー知事に対するリコール運動がスタートした。署名期間は2か月であるが、この間にリコールに必要な署名数約54万票(前回知事選投票総数の4分の1)の倍近くに達する100万人を超える驚異的な署名数が集約され、2012年1月17日に選挙管理委員会に提出された。また同時に行われた副知事、与党州議会議員4人へのリコール署名も法定数に達した。目下、選挙管理委員会では署名有効性の確認作業が行われており、有効投票数が確定すれば再選挙が行われることになる。
このリコール運動が成功した背景には、「ユナイティッド・ウイスコンシン」(団結したウイスコンシン)と呼ばれる、広汎な市民階層から構成されるリコール署名運動の飛躍的展開があった。労働組合員、退職者、民主党議員、農民団体、市民団体、学生グループなど2万人以上の人びとが、ウォーカー知事や共和党側の猛烈な妨害工作にもめげずに、電話、戸別訪問、サッカーや野球の観客への働きかけなどを通して献身的な活動をやり抜いたのである。
私はこの報告を聞いた瞬間、大阪でこそ「反ハシズム」のための「ユナイティッド・オーサカ」(団結した大阪)と呼べるリコール運動組織が必要であり、いまこそ橋下市長や松井知事を同時にリコールする“大阪ダブルリコール運動”が提起されるべきときだと感じた。なぜなら、大阪維新の会が次々と打ち出してくる反動的施策や策動に後追い的に批判・対抗するだけでは、「ハシズム」に勝利することが難しいからだ。またハシズムにイニシャティブ(主導権)を握られている状況の下では、「反ハシズム」の国民世論を効果的に結集することが困難だからだ。
どこかで現在のような「ハシズムにやられ放し」の局面を変えなければならない。そのためには個々の反動的施策に対する批判活動も重要だが、それだけでは現在の局面を変えることは出来ないことを認識すべきだ。もっと広汎な府民や市民、それを支援する国民世論を結集できる「大きな旗印」が必要なのだ。「モグラ叩き」のような後追い的な行動だけでは、人びとを立ち上らせることは出来ないからである。
「反ハシズム、ユナイティッド・オーサカ」を結成し、“大阪ダブルリコール運動”を提起することは、現在の局面に危機感を抱く広汎な良識層を結集し得る「大きな旗印」になると私は確信する。自治体労組、教組など公務員労働組合はもとより、広汎な市民団体、ボランティ団体、学生グループ、商店主、工場主などにも広くかつ大胆に働きかけるべきだ。もし知識人やジャーナリストあるいは研究者がその「結び目」になることができるのなら、私たち研究者は率先してその行動に立ちあがるべきだ。
余談になるが、ウイスコンシン州の運動は私個人にとっても決して遠い存在ではない。ウォーカー知事が財政再建法案を州議会に提案する直前の昨年1月27日から2月3日までの約1週間、私は近くのルイジアナ州のニューオーリンズにいた。「ハリケーン・カトリーナ」の襲来で致命的な災害を受けたニューオーリンズの復興実態を調査するために現地を訪れていたのである。
このとき私たち調査団の全日程を調整してくれたのは、ウイスコンシン州立大学大学院で社会学を専攻し、神戸大学大学院で日本の災害研究をしていた有能なアメリカ人の女性研究者だった。彼女はインターネットを駆使して地元のNPОやNGOと連絡を取り、私たちの充実した調査計画をつくってくれた。また現地では専門的な通訳として大活躍してくれたことは言うまでもない。当時、アメリカ中のマスメディアはすでにウイスコンシン州議会をめぐる前哨戦をしきりに報道していたが、そのことを教えてくれたのも彼女であり、自分の故郷の行方を心から心配していたのも彼女だった。
また当時、エジプトではムバラク独裁政権に対する民衆運動(ジャスミン革命)が頂点に達し、私たちが宿泊していたホテルのテレビは、連日「ブレーキングニュース」(臨時ニュース)を報道していた。そのとき「タハリール広場」のデモに参加していたのが、両親がアメリカ生まれのエジプト人だったウイスコンシン大学の学生グループのリーダーであり、彼はそれから直ちに帰国して学生運動を組織したと今回の「大阪フォーラム」で聞いた。不思議な縁を感じずにはいられない。(つづく)