各県各様の被災地模様、(震災1周年の東北地方を訪ねて、その1)

 3月31日夜遅く、東北地方の調査から戻ってきた。約1週間の行程だ。震災後、私が最初の被災地調査に向かったのは昨年4月末、今から11か月前のことだ。当時はまだ東北新幹線が復旧していなかったので、福島空港から渋滞を極める東北自動車道を北上した。だが、内陸部を走る高速道路から沿岸部の惨状を窺い知ることはできず、遠野市に着いてから少しずつ現地の実状がわかってくる有様だった。

東北地方の春は美しい。梅、桃、桜の花が同時に咲くので「三春」というそうだが、東北自動車道の沿道から見える光景はのどかで美しい「三春」そのものだった。だが、今回の調査は僅か1ヶ月早いだけで、東北地方は冬景色のなかに埋もれていた。花の蕾は固く、まるで咲くのを拒んでいるようにさえ見受けられた。

東北地方はあまりにも広い。だから、被災地の模様も様々だ。岩手、宮城、福島の被災地状況は各県各様であり、また同じ県内でありながら各地域の様相は全く違う。沿岸部と内陸部とでは「天と地」の差があるといっても過言ではない。だから単なる印象記では、「群盲象を撫でる」ことになりかねない。まして単独行では、撫でている対象を見定めることさえ難しい。

しかし、印象記も何を切り取るかで問題の本質に迫ることができる。今回の私の調査目的と調査対象は「震災1年後の自治体の復旧復興計画」の点検だが、本論に入る前にまず幾つかの印象深い光景について語りたい。

岩手県は県庁所在地の盛岡市しか行っていない(車の運転ができない私は、そこしか行けなかった)。言うまでもなく岩手県は、北海道を除くと日本最大の県域を持つ広域自治体だ。大阪府の8倍もの広さがあり、石川啄木宮沢賢治を生んだ土地だと言えば、その素朴で実直な風土や県民性がわかるというものだ。

しかしその一方、岩手県は日本の戦後政治を翻弄してきた小沢一郎氏が支配してきた「小沢王国」でもある。小沢氏は震災後も地元に一度も帰ることなく(今年に入ってやっと帰郷した)、もっぱら中央政界での権力闘争や自らの裁判対策に明け暮れていた。それでも(それほど)小沢氏の影響力は大きく、とりわけ腹心の部下である達増知事は、その意向に忠実であることを執政の旨としているのだという。

石川さゆりの歌ではないのだが、京都から「のぞみ」と「はやて」を乗り継いで昼前に盛岡駅に到着したとき、文字通り「盛岡駅は雪の中」だった。周辺一帯は道路標識がかすんで見えないほどのボタ雪が降っており、路上の電光温度計は2度を示していた。風も相当強かったので、バス停で待っていた時の体感温度はおそらく零下3度から5度ぐらいにまで下がっていたに違いない。盛岡市郊外のダム湖は広大な水面が一面凍結し、氷上は10センチ近くの積雪で覆われていた。

被災地の広さと冬の寒さが東北地方の被災地の一大特徴だ。大阪や京都からリュックを担いで神戸の救援に向かった阪神淡路大震災の経験など、とても役には立ちそうにない。厳寒期のプレファブ仮設住宅の室温は零下まで下がり、室内の濡れタオルがバリバリに凍ることもあるという。こんな訴えを受けて断熱工事に着手した建築関係者の言によれば、仮設住宅の建設費は追加工事を含めて1戸当たり1千万円にも達するそうだ。

だが、私を迎えたのは厳しい寒さだけではなかった。27日夜8時過ぎに震度5弱の激震が岩手県一帯を襲ったのだ(4月1日深夜にも福島県一帯で震度5弱の激震があった)。気象庁の説明によれば、3.11大地震の余震が東北地方一帯でいまだに続いているのだという。私が宿泊していた建物は音を立てて2度も大揺れに揺れ、逃げ出したいのをこらえるのがやっとだった。人々はいまだに地震の恐怖から解放されていないのだ。

宮城県では、女川町に出向している友人の案内で早朝から沿岸部一帯を回った。三陸海岸の隅々まで被災地を見たのはこれが初めてだ。仙台市若林区荒浜地区では、膨大な数の墓標が1か所に集められて山積みされていた。その周辺には、仙台市の高台移転方針に反対するプラカードや黄色いハンカチが至る所に掲げられていた。浸水地域に踏みとどまって復旧復興したいと思う被災者が相当数いるからだ。

最も胸を打たれたのは、石巻市に吸収合併された周辺旧6町の惨状だった。石巻市は浅野知事時代の広域合併で誕生した(人口だけは)宮城県第2の自治体だ。しかし「選択と集中」を復興計画の基本とする村井知事の方針によって、旧6町の地区総合支所(町役場)のある中心地域はまるで放棄地のような様相を呈していた。聞けば、被災地はいまだに復興計画も策定されず、雄勝地区(旧雄勝町)などでは建築規制をかけられた上に、遠方の山間地に移転するか、他地区に移転するかの二者択一を迫られているのだという。これではまるで棄民政策ではないか。

また、隣接する河北地区(旧河北町)の大川小学校跡地を訪れたときは涙するしかなかった。108人の児童のうち74人が津波に呑まれて亡くなった未曾有の学校災害(事故・事件)だ。当日、校長は私用で不在(当初は公務出張だとウソをついていた)、11人の先生たちは右往左往して子どもたちを避難誘導出来なかった。校舎のすぐ傍に裏山があるというのにである。その後、父兄の強い要求で説明会が開かれたが、石巻市教育委員会はあくまでも落ち度を認めず、原因究明を頑強に拒んだという(現在は調査委員会が設けられている)。

壊れた校舎の前には慰霊塔がつくられていて、小さな鐘がつるされていた。三々五々訪れた人たちが無言で鐘を突き、花を手向けて冥福を祈っていた。私がもしこの子たちの親であったとしたら、どれほどの悲しみと憤りを覚えたであろうか。たとえ一人であっても教育委員会を相手取って訴訟を起こすに違いない。でも、父兄の間から訴訟の動きはまだ起こっていない。

福島県に移ろう。福島県では当初、「帰村宣言」をした川内村に行きたいと考えていた。でも原発周辺の警戒区域が解除されて立ち入りが自由になったのは4月1日からで、残念ながら3月中は立ち入り禁止だった。路線バスも再開していなかった。調査日程を1日延ばすことも考えたが、どうしても帰らなくてはならない要件があり、止むを得ず川内村役場が避難していた郡山市役所に行って事情を聴こうと思った。でも役場は帰村準備の真最中、それどころではなかったので諦めた。

 その代わりと言っては何だが、郡山市郊外で泊った宿舎では思いもかけない光景に出合った。原発警戒区域の警備に当たっている機動隊が宿泊していたのである。聞けばこの1年間、全国から機動隊が交代で警戒区域の検問やパトロールに従事してきたのだという。各都道府県の警察本部から約2週間の予定で数十人から200人近くの機動隊員が順次動員され、24時間体制で警備態勢が敷かれていた。

 3月後半は神奈川県警の当番で約150人、その前は熊本県警数十人が勤務に就いていたそうだ。鹿児島県警のときは、真冬の東北地方の寒さに参ったという。24時間交代なので、機動隊員の半分が朝7時半に出発して翌日の朝に帰ってくる。その繰り返しである。しかし宿舎の管理は徹底していて、従業員といえでも部屋には入れない。浴衣やシーツは廊下の入口に置くだけで掃除も出来ないそうだ。それほど警戒区域内の各種の「風評被害」に対しては気を使っていたということであろうか。(つづく)