“日本型ショックドクトリン計画”が生まれた背景、宮城県震災復興計画を改めて問い直す(1)、(震災1周年の東北地方を訪ねて、その18)

 私が宮城県震災復興計画のことを初めてブログ日記に書いたのは、いまからちょうど1年前の5月13日と17日のことだ。タイトルは13日が「創造的復興という名の“道州制導入実験”に突っ走る宮城県震災復興計画」、17日が「“戒厳令”といったキナ臭さが漂う宮城県震災復興計画」というもので、昨年の4月下旬から5月上旬にかけて東北被災3県調査に行ったとき、現地で読んだ河北新報の記事がそのきっかけだった。

 なかでも最も強い印象(衝撃)を受けたのが、5月2日の宮城県震災復興会議の初会合に出席した12名の委員の顔ぶれだった。三菱総研、日本総研野村総研日本政策投資銀行など財界系(金融資本系)シンクタンクの幹部がズラリと並び、地元メンバーは僅かに東北大学の2名だけ、被災市町村の首長は誰一人入っていなかった。

前回の「岩手県シリーズ」のなかで、私は自治体震災復興計画の性格は、(1)被災状況の内容や規模・程度、(2)住民運動など世論の動向、(3)首長の政治姿勢と議会の勢力分布、(4)事務局を構成する官僚機構の体質、(5)計画策定メンバーの構成によって決まると書いた。宮城県復興計画の際立った特徴は、何よりも(3)(4)(5)の要素が突出していることであり、これほど赤裸々(露骨)な災害便乗型の計画は見たことがない

昨年5月当時は、ナオミ・クラインの著書(邦訳)、『ショックドクトリン〜惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(岩波書店、2011年9月)がまだ出版されておらず、「ショックドクトリン」なる言葉も流布していなかった。私が代わりに使っていたのは「奇貨の復興計画」という表現だったが、いまは「ショックドクトリン計画」(災害便乗型新自由主義的地域再編計画)の方がはるかにポピュラーになったので、宮城県の場合を以下「日本型ショックドクトリン計画」と呼んで分析してみたい。

宮城県の復興計画の中身についてはもう繰り返さないが、目下の私の最大の関心事は、なぜかくも赤裸々な「ショックドクトリン計画」が宮城県で生まれたのかということだ。その回答としては、(1)もともと宮城県という自治体がそういう行政体質を持っていた、(2)村井知事という特異なキャラクターのなせる業、(3)特定の計画策定メンバーが選りすぐられたなど、いろんな解釈ができる。

確かに、被災3県のなかでも宮城県の官僚的体質は際立っており、国からの天下り官僚も含めて上意下達の思考様式・行動様式に長けたテクノクラート集団(計画官僚・技術官僚群)を多数抱えている。また村井知事が、防衛大学校卒の元自衛隊員でありかつ松下政経塾出身者でもあるという「三拍子そろった人材」であることも有力な説明材料になる。しかしこの2つの要因だけで、宮城県に「ショックドクトリン計画」が生まれたと判断するのはいささか早計すぎる。

それを傍証する材料として、村井知事が就任後に取り組んだ宮城県総合計画、『宮城の将来ビジョン』(2007〜2016)のケースを上げることができる。2006年に村井知事から任命された24名の総合計画審議会委員の内訳は、研究者・NPО関係者8名,市町村長2名,商工会・農協・漁協・労組・消費者団体・スポーツ団体・医師会など各種団体役員14名の計24名で構成され、岩手県の場合と同じくメンバーは全て宮城県在住の「オール宮城」だった。

「富県共創!活力とやすらぎの邦づくり」とネーミングされた『宮城の将来ビジョン』の基本政策も、(1)富県宮城の実現〜県内総生産10兆円への挑戦、(2)安心と活力に満ちた地域社会づくり、(3)人と自然が調和した美しく安全な県土づくりという、温和でバランスのとれた内容だった。そして3番目の基本政策のなかに、「4.宮城県沖地震など大規模災害による被害を最小限にする県土づくり」の項目が設けられ、次のように記述されていた。

「近い将来、発生が確実視されている宮城県沖地震をはじめとする大規模災害に備え、市町村や関係機関と連携しながら被害を最小限にする県土づくりに取り組みます。地震津波などに対しては観測体制を強化し、その情報を県民等に迅速に提供することにより被害の軽減を図ります。また、早急に学校をはじめとする公共施設の耐震化について取り組むとともに、住宅等についても耐震化を促進します。(以下、略)」

つまりこの段階での宮城県総合計画は、「私たちが目指す10年後の宮城は、県民一人ひとりが、美しく安全な県土にはぐくまれ、産業経済の安定的な成長により、幸福を実感し、安心して暮らせる宮城です」との目標を掲げ、地域の均衡に配慮し、地域の総合的発展を着実(漸進的)に追及するオーソドックスなものであった。またその一環としての地震津波対策も、「市町村や関係機関と連携しながら被害を最小限にする県土づくりに取り組みます」という現状復旧復興型のコンセプトにもとづくものであった。

ところがそれから僅か4年後、しかも2016年までの『将来ビジョン』を自ら策定して継続中にもかかわらず、村井知事は『宮城県震災復興基本方針(素案)』(2011年4月)において、なぜ『将来ビジョン』を継承発展させようとしなかったのか。なぜ「単なる復旧ではなく再構築」・「現代社会の課題に対応した先進的な地域づくり」・「壊滅的な被害からの(新しい)復興モデルの構築」などの基本理念を突如打ち出したのか。

2006年と2011年との決定的な違いは、計画策定メンバーが「オール宮城」から「オールジャパン」へとガラリと入れ替わったことだ。そしてそれを全て取り仕切ったのが財界系シンクタンク野村総研だった。(つづく)