2012-01-01から1年間の記事一覧
雄勝中心部における跡地開発計画の中核施設は、津波浸水地域に計画された「スポーツ公園」(サッカー場、テニスコート、野球場など)、雄勝湾の景観を活かした「親水公園」、そして「津波避難モール」という名の「海の駅」を含む複合商業施設である。公園施…
津波浸水地域として「災害危険区域」に指定され、住宅再建が禁止される予定の雄勝地区中心部は、震災以前は618世帯1668人の住民が暮らしていた。石巻市に合併されるまでは旧雄勝町の中心地区であり、役場、学校、郵便局、病院、伝統産業会館、商店街などが集…
第2回目、雄勝支所による「高台移転意向調査」(調査世帯数1211、有効回収世帯数758、回収率62.6%)は、3カ月後の2011年10月に行われた。この調査はすでに「番外編6」でも書いたように、前文で「石巻市では津波で浸水した区域以外の安全な土地に住宅団地を…
前回の掲載日は9月15日だったので、もう半月余りも日記を書いていない勘定になる。書く材料がなくなったわけでもないし、日々無為に過ごしていたわけでもない。この間、大阪で「おおさか社会フォーラム」、大宮で「地方自治全国研究集会」という2つの大きな…
松館氏のブログ『震災日誌in仙台』(8月19日)の指摘を俟つまでもなく、“雄勝未来会議”と題する大げさなネーミングは、学生たちに説明会で「雄勝の未来を語らせる」ための仕掛けだった。松舘氏流に言えば、学生たちの“夏休み自由研究”レベルの報告を長々とさ…
2012年8月19日に開かれた「雄勝地区復興計画(案)住民説明会及び意見交換会」は、何から何まで異様づくめの集会だった。まず、会の名称が“雄勝未来会議”といういままで聞いたこともない名前に変えられていた。次に、会の主催は石巻市雄勝総合支所、協力が雄…
2011年11月に入ると、『石巻市震災復興計画(素案)』が公表され、市民との意見交換会が各地区で始まった。だが、雄勝地区の心臓部ともいうべき中心部では様子が違った。行政側の高台移転計画がはじめて地元で説明されたとき、被災者から猛烈な反発の声が上…
雄勝支所の高台移転担当者および大学アドバイザーは、2011年9月末で高台移転事業が「復興まち協」で合意され、地区会長会(区長会)でも確認されたという“報告”を市役所本庁(基盤整備課)に提出(さえ)すれば、後は一部住民の異論があったとしても高台移転…
私が最初に「アーキエイド」(東日本大震災における建築家による復興支援ネットワーク)の活動報告に接したとき、この集団は1960年代から70年代にかけてアメリカやイギリスで誕生した「コミュニティ・アーキテクト」・「アドボケイト・プランナー」の“日本版…
2011年12月10日、石巻市震災復興基本計画(案)意見交換会において雄勝支所から提出された「高台移転計画の方針決定に係る経過概要」には以下のような内容が記されている。おそらく防災集団移転促進事業に関する国交省への申請書類にも、同趣旨の「住民合意…
“地元再建”の被災者ニーズを乱暴に踏みにじった「要望書」、そして高台移転計画に被災者を追いたてる「意向調査」、平成大合併がもたらした石巻市の悲劇(番外編6)、(震災1周年の東北地方を訪ねて、その57)
雄勝地区の全世帯アンケート調査結果が「復興まち協」でどのように議論されたのか、私は詳しく知らない。しかし7月29日に市長に提出された「要望書」なるものは単なる要望事項の羅列にすぎず、それを裏付ける討議資料(議論らしい議論がなかった)もアンケー…
「復興まち協」が発足する以前に石巻市が行ったアンケート調査には、全市規模の『石巻の都市基盤復興に関する市民アンケート』(2011年5月実施、6月結果発表)がある。この調査は以前にも書いたように、「これほど杜撰な調査はない」(詳しい理由は7月16日の…
震災から僅か2カ月余り、徹頭徹尾、行政の手で設立された「雄勝地区震災復興まちづくり協議会」(「復興まち協」という)の役割には、驚くなかれ以下のような項目が平然と並んでいた。 ①雄勝地区の復興ビジョンや地域課題について意見交換を行い、集約し、市…
震災前、雄勝地区(合併前の旧雄勝町)には1637世帯・4300人が住んでいた。うち7割の1150世帯・3千人が被災したが、旧町内に建設された仮設住宅は僅か500人分だけで、残り2500人は町外の仮設住宅、市内外の民間賃貸住宅や親戚の家などに広く離散せざるを得な…
雄勝中心部(震災前人口1668人、618世帯)の高台移転計画の経緯を追っていくと、そのなかに石巻市の「アドバイザー」という名の建築家(大学教員、アーキエイドメンバー)がしばしば登場する。石巻市雄勝支所が設けた「雄勝地区震災復興まちづくり協議会」の…
7月末で宮城県の復興計画分析を一旦終えてからもう1ヶ月近くも経った。この間、日記を休んで何をしていたかというと、日本災害復興学会機関誌の原稿執筆や基礎経済研究所の研究発表などの準備に予想外の時間を取られたこともあるが、それ以上に石巻市雄勝地…
石巻市が「世界の復興モデル都市」を目指すことの是非は別にして、「(世界最大級の)被災都市」であることは間違いない。いま改めて被害状況を振り返ってみても、その凄まじいまでの数字は言葉を失うばかりだ。(『石巻市の復興状況について』、石巻市、201…
私はこの石巻市シリーズの冒頭で、「最大の被災都市から世界の復興モデル都市石巻を目指して」という石巻市震災復興計画のサブタイトルにこそ、“石巻市の悲劇”のすべてが凝縮されていると書いた。その理由は、「最大の被災都市」から「世界の復興モデル都市…
「復興計画(素案)」(2011年11月7日)が公表された段階で、市はすでに雄勝地区を災害危険区域に指定し建築制限をかけることを事実上決定しており、12月市議会にそのための建築条例案を提出することが予定されていた。しかし11月15日からはじまった市内一円…
亀山市長・本庁幹部職員約20名、市議数名、雄勝支所長・支所職員数名、雄勝地区住民約100名が参加した「石巻市震災復興基本計画(素案)」に関する意見交換会(2011年11月27日)は、雄勝地区復興まちづくりの歴史的な第3ステ―ジの幕開けとなった。市長挨拶の…
雄勝地区の復興まちづくりの第1ステージは、市当局・雄勝支所が地区会長(集落代表など)らに呼び掛けて「雄勝地区震災復興まちづくり協議会」を発足させ、亀山市長に「高台移転促進を求める要望書」を提出させた2011年5月から7月までの2ヶ月間だ、と以前に…
建築基準法第39条に「災害危険区域」に関する条文がある。その内容は、「1.地方公共団体は、条例で、津波、高潮、出水等による危険の著しい区域を災害危険区域として指定することができる」、「2.災害危険区域内における住居の用に供する建築物の禁止その…
復興まちづくりの方向をめぐる被災者・住民対立の背景には、同じ地域に居住しながらも職業や働き場所、生活圏の違いなど生活様式が多様化しているという現実がある。前近代社会(封建社会)は、職業・身分・居住場所が三位一体的に固定され、それが社会と空…
もうひとつの特集記事「震災と過疎 石巻・雄勝町の今(下)」(河北新報、2012年03月18日)は、見出しが「進まぬ計画」「合併影響、人手が不足」「高台移転、溝埋まらず」とあるように、高台移転を前提とする市当局の復興計画が被災者の激しい分裂を招き、思…
平成大合併がもたらした石巻市の悲劇を象徴するかのような特集記事が2つある。ひとつは震災から半年後の「震災と平成大合併(上)、石巻市」(河北新報、2011年10月16日)、もうひとつは1年後の「震災と過疎、石巻・雄勝町の今(下)」(同、2012年03月18日…
「石巻市震災復興基本方針」が2011年4月27日に発表されて以降、9月12日の「被災市街地復興推進地域の決定について」までの4ヶ月半、驚異的なスピードで石巻市の「復興まちづくりアンケート調査」と「都市基盤整備復興計画」の策定作業が進められた。全ては宮…
前回、震災後僅か2か月足らずで、石巻市の運命を左右しかねない復興計画の骨子が、『石巻の都市基盤整備に向けて』(2011年4月29日)という文書で市建設部から発表されたことを書いた。その手法は、阪神淡路大震災において神戸市都市計画局が震災1ヶ月余りで…
石巻市のホームページや「東日本大震災復興計画ポータルサイト」(財団法人国土技術研究センター作成)で石巻市復興計画の関係資料を調べてみたが、しかしその内容は村井県政の復興方針の単なるコピーの域を出ず、内容もお粗末で計画のレベルも低い。これで…
河北新報のデータベースを検索していると、興味深い記事が幾つも浮かび上がってくる。なかでも『回顧‘09』シリーズの記事には、合併後の2度目の石巻市長選に関する鋭い総括が掲載されていて大いに参考になる。石巻総局記者の署名入り記事「不満噴出、刷新…
1市6町の石巻地域合併協議会によって、合併後の新市「石巻市」を建設していくための基本方針を示す「新市まちづくり計画」(2004年)が策定された。計画は「序論」にはじまり、「新市の概要」、「主要指標の見通し」、「新市建設の基本方針」、「新市の施策…